垂渓庵です。
何ヶ月ぶりだろう。このブログ、ほとんど機能していない。機能していなくても迷惑をかけるところがあるわけではないけれど、機能させていない自分ががなんとも落ち着かない。
というわけで、最近源氏物語を読んでいる。と前の記事で書いたのかどうかさえ、すでに忘却の彼方だけれど、 とりあえず源氏物語を読んでいる。
学生の頃とは違い、時間も手間もかけていられないけれど、いろんなところが気にかかる。もちろん、注釈書を参看しつつ、マスダ先生や石田穣二さん、清水好子さん、阿部秋生さん、今西裕一郎さんらの諸論考に問題意識を喚起させられながら読むからで、わたしに初手からそんな生産的な読解力が備わっているわけではない。
が、ともかく、非常に興味深く読んでいる。大学の学部生の頃に源氏の講読の授業もとっていたけれど、こんな風に読むことはできなかった。余裕がなく発表に汲々としていた印象がある。何も分からないままにかろうじて見よう見まねで読んでいた。使い方はおろか用途すらよく分からない装置をとにかく動かせと言われていたようなものだ。
今は、使いこなすまでには到底至らないけれど、少なくとも基本の使い方やいちおうの用途ぐらいは分かるようになっているということなのだろう。
学ぶは真似ぶだとはよく言ったものだと思う。真似してやってみて、失敗して、また工夫して……。ということを繰り返してやっと入り口が見えてくる。見えてくるためには、後の努力ももちろんだけれど、最初の真似ぶところで手を抜いてはいけないのだと思う。手を抜いていたら、訳の分からぬ装置が手になじむことはなかった気がする。
そう考えると、就職のことなど四回生になるまで考えず、ひたすら浮き世離れした講読やら演習やらに浸ることができたのは、それはそれで幸運だったのかもしれない。やってる当時は苦痛に感じられることも多々あったのだけれど。
少なくとも学生の頃の延長のようなことをちまちまとやることがおあしを稼ぐことにつながるわたしとしては、何やら実学志向になっているらしい現在の大学で学ばなくてよかった、と思わなくもなくなくなくないわけである。あれ。