2017年10月24日火曜日

旧暦9/5 国民の負託

垂渓庵です。

選挙が終わって気づけば自民党の一人勝ちだ。いや、立憲民主党も頑張った方だ。とは言っても大勢は動かない。

安倍さんは「国民の負託にこたえる」と言っているが、負託の中身をどう考えているのだろう。国民は「改憲→さらなる右傾化というか愛国心の強要」のような方向を望んでいるのだろうか。安倍さんは望んでいると思うけれど。

北朝鮮がきな臭いことになりつつあり、中国や韓国の反日行動がエスカレートする中で、アメリカがどう出るか、ロシアがどう出るか、不透明な状況だ。そんな中、選択肢がなかったが故に自民党に投票したという人も多いのではないかという気がする。それが負託の中身ではなかろうか。それは全面的な信認ではなく、ちょっと過激というか強硬な路線に走る危険性はあるけれど、他に受け皿がない中で仕方なく選ぶという消極的な選択だろう。

安倍さんに求められているのは、この混沌とした状況を切り抜けることだろう。その限りにおいては自衛隊の出動もやむなし、と思う人も多いかもしれない。が、それをフリーハンドの自由を与えられたと安倍さんは勘違いしやしないか。するような気がしなくもなくなくなくない。あれ。


2017年10月4日水曜日

旧暦8/15 今日は十五夜だ

垂渓庵です。

またもやご無沙汰してしまいました。どうもこれが常態化しつつある。こりゃ、記事を更新するのはかえってよくないのではないかと思ってみたり。ま、さすがにそれはないか。更新しなけりゃ、ただ単にブログをやめましたってことになる。やはりごくたま~にであっても更新することにはそれなりに意味があるのだ。

などと屁理屈を言うのはやめておこう。ここは謝るところだ。えっと、だれに。

ともかく忙しさにかまけてしまい、すみません。

というわけで今日は旧暦八月十五夜。中秋の満月ってやつだ。急に涼しくなったし、中秋の満月っぽいといえば、っぽい。

日が沈む頃に職場を出ることになろうから、ゆるゆると歩きながらお月さまを愛でて帰ることにしよう。

というわけで、近況報告。田川建三さんの「書物としての新約聖書」を電車で読もうと思ったのはいいが、やっぱり重い。電車で読もうとしたのは無謀だった。というわけで、そのまま職場に置いてあいるのだけれど、どうも忙しくて読めそうにない。これ、また持って帰んなきゃいけないのか。

というわけで、電車ではカルロ・ギンズブルクの「チーズとうじ虫」を読んでいる。再読だ。翻訳が少しよろしくない気がしなくもなくなくなくない。あれ。けれども、やはり面白い。

行きの大音量や帰りの大音量としては、ここんとこアート・ファーマー、ベニー・ゴルソンのJazztetのアルバムやディジー・ガレスピーのアルバムを聴いている。浪曲ももちろんいい。が、Jazzもいいのである。今日は何を聞こう。


ところで、ポケモンってかれこれ20年以上放送されている気がするけれど、サトシっていったいいくつだ。

ウルトラシリーズは一応シリーズごとにメインのウルトラマンが違ってた。登場人物もほぼ一新していたし。だからメビウスのように全体を一つの時系列にまとめようと思えばまとめることもできるわけだ。メビウスの作品世界の中では昭和のウルトラシリーズは全て史実だったのだ。

でもポケモンは…。サトシの相棒的な方々は定期的に変わってるようだけど、サトシは年齢ほとんど変わんないみたいだ。ものすごく短いサイクルで相棒変えてますっていうのならともかく、これまでのシリーズ全てを史実として一つの時系列にまとめ上げるのはちょっと無理だろう。平行世界にサトシがいっぱいいるって考えればなんとかあの年齢の変わらなさに説明がつけられるのかな。

ちなみに、じゃりン子チエでは、チエあるいはコアな登場人物は年をとらないけれど、周辺の存在は適度に年をとったりしていたはずだ。ミツルは独身だったけど途中で結婚したし、カルメラ兄弟もそうじゃなかったか。子供も生まれたはずだ。でも、チエはずっと小五だ。

ポケモンでは、周辺の人物が年取るエピソードってあったんだろうか。もしもそうならポケモンはじゃりン子チエ型の世界ってことになる。

やっぱり単純にサザエさんあるいはドラえもん的って考えればいいのかな。あれも登場人物は年をとらない。が、そう考えるには違和感が残る。サザエさんやドラえもんでは、周辺の人物がポケモンみたいにがらっと入れ替わったりしない。変わらぬ日常が変わらぬメンバーで延々と続いていくという感じだ。ポケモン、変わりすぎだろ。

あ、あれか。ポケモンはサトシが旅にあるのが常態だ。旅は漂泊、無常観と古来結びついている。だからポケモンは実は無常観に裏打ちされているんだ! 無常観が元にあるから相棒もころころ変わるんだ!

などというはずはない。ピカチュウとの友情、変わんないし。

ううん、どうでもいいことを考察するのはとても楽しい。