垂渓庵です。
川柳を作り始めてそろそろ三年が経つ。いっこうに上達しないけれど、ふだん時々考えることがある。川柳と俳句の違いは何だろう、と。
川柳を作らない方の多くは、俳句には季語と切れ字があって、川柳にはない、とか、俳句は何やら文学的なところのあるもので、川柳はサラリーマン川柳的な卑俗なもの、というように考えておられるのではなかろうか。
もちろん、そういう側面がないわけではないが、実際に川柳を作り、いくつもの実作に触れてみると、どうもそう単純に割り切れぬような気がするのである。いったい両者の違いはどのあたりにあるのだろうか。
これが違いだとはっきり指摘できるわけではないけれど、川柳の方がどちらかというと、文芸性が薄いように感じられる理由は、なんとなく分かる気がする。
俳句は、季語や切れ字など、伝統俳句にまで連なる蓄積がある。それはそれで、川柳との形式的な違いになるけれど、実は形式そのものがそれほど重要なのではなくて、形式を支える伝統的な蓄積の有無の方が、両者の文芸性を隔てる主たる要因である、極論すれば、そのように言うことも可能なように思えるのである。
要は、新たに俳句を作ろうと思う者は、その蓄積をある程度自分のものにした上で句を作らなければならない。たとえそこから出て行くにしても、一度はその伝統に連ならないといけないのだ。現代短歌にしても事情は似ていると言っていいだろう。こちらは、正岡子規を境として、伝統和歌との間の断絶が大きい気はするが、やはり、伝統的な和歌の世界での恋や四季の扱い方に無知であってはいけないのではないかと思うのである。
一方の川柳はどうだろう。江戸時代の実作と現代の川柳作家との関わりは、俳句や短歌ほど濃密ではない。また、江戸期の川柳が、現代の川柳作家の実作の方向性を規定するほどの蓄積を持っていた、とは言いかねる面があると言っていいだろう。
要は、文芸ジャンルとして、正統とは何かという点について、共通する認識が確立していないのである。その結果、先端的業績が、正統を乗り越え、正統を豊かにするものとして機能するのではなく、それぞれに作家個々の川柳観に従った試みとしてばらばらに受容されるだけになってしまっている面があるのではないか。
それでは、川柳を伝統性を有する文芸として育てるにはどうすればいいか。やはり、現代の先端的川柳作家の実作をも含み込む形で、川柳を規定するところから始めないといけないのではないだろうか。もちろん、川柳入門期である最初の入口部分では、あまりくだくだしい区別を気にしなくてもいいと思うけれど、川柳作家であれば、どこかでこの問題について考察し、互いに意見を交換することで、共通認識を育てていかなければならないということだろう。
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