垂渓庵です。
ぼやぼやしているうちに、旧暦でも年が変わってしまった。いいかげん図書館祝詞についてコメントしないといけないところだけれど、今回はちょっとパスして、少し軽めのネタをお届けしよう。
ちょっと前にわたしのkindleが代替わりしたと書いた。で、その代替わりしたkindleで、吉川英治の「神州天馬侠」を読んでいる。表現などを見ていると、「三国志演義」などを下敷きにしている印象を受ける。吉川版「三国志」の序文によると、少年期に邦訳「三国志」の愛読者だったらしいから、あたりまえなのかもしれないけれど。
しかし、「神州天馬侠」を見ていると、吉川版「三国志」との違いに気付く。吉川版「三国志」からは、呪法とか魔法といったようなものが慎重に排除されている。吉川版では諸葛孔明は観天望気の達人、気象学者みたいだ。
さて「神州天馬侠」はというと、呪法魔法のオンパレードだ。
吉川英治は呪法などの超自然的なもの自体を忌避したのではなく、三国志においてはそれらを不要の物とした──少なくとも、自らの「三国志」からは排除しようと思った──らしいことが分かる。
「神州~」は少年向けの作品のようなので、あえて当時の少年倶楽部などの忍者もののテイストを加味しようとしたのかも知れず、両者を同列に論じるわけにはいかないけれど、「神州~」を読む限り、吉川自身は別に超自然的なものの取り扱いが苦手なようには見受けられない。
石兵八陣は吉川版でも何やら怪しげに描かれているし、木牛流馬もよく分からない代物だ。いっそ「三国志演義」的なものを大々的にフィーチャーしてもよかったのではないか、と思わなくもない。
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