垂渓庵です。
大学を出てはや20年以上。今や根を詰めて勉強することはない。よくないことだとは思いつつも、要領よく授業準備をやり、その時々に思いついたことを少し掘り下げる、というような感じで日々を過ごしている。
例外的に少し手間をかけて勉強したのが、「古文を訳させるにはシリーズ」の授業のための予習だ。もはや去年のことになる。
今回は、次の段階として予定している「歌物語を読ませるシリーズ」「和歌を読ませるシリーズ」のための勉強だ。
とにかく丸一日、図書館で調べ物をしたのだ。これは、「古文を訳させるシリーズ」ほどの長期間にわたるものではないが、一日の密度としてはとても高いものとなった。
具体的に言うと、伊勢物語68段までで使えそうな部分と、古今和歌集から二十首ほどとををピックアップし、ややじっくりと調べ物をしていった。後撰和歌集からも和歌を六首ばかりひろいだしたか。やっぱりこういうちまちました作業は面白い。
大学の頃のように文献を博捜するのではなく、片桐洋一の笠間版「古今和歌集」、「伊勢物語全読解」、新大系の「後撰和歌集」をベースに、図書館にあるそれぞれの注釈を見るという感じだったけれど、久々に頭を使ったという感じだ。あ、必要に応じて藤井髙尚の「伊勢物語新釈」「古今集新釈」など、江戸時代の注釈書も参観した。本当は片桐洋一さんの「古今和歌集全評釈」も見ようと思ったのだけれど、図書館にはなかった。
どれも基本的には家にあるものばかりなのだけれど、家ではなかなか集中して読めないということもあり、図書館にこもった次第。これは昔からの癖だ。
当たり前のことだけれど、丹念に注釈書を読み進めると疑問を感じるところが出て来る。片桐さんの書いたものにしても同様だ。無謬の聖典じゃあるまいし、盲目的に読むのは、かえって片桐さんに失礼というものだ。学会でそんな信仰告白みたいなことを言おうものならきっとご本人に怒られることだろう。最近学会に出ておられるのか知らないけれど、以前学会でお見かけした頃はそんな感じの方だった。
ともかく、疑義を感じることもないではなかったが、結局この碩学に教えられることは数知れず。ほんとうに久しぶりに勉強させてもらいました。とくに「全読解」などは、蘊蓄を傾けて止まるところを知らないという感じだ。改めて伊勢物語の成立論の射程の深さを実感できた。通勤の途中で読もうかなと思わないではなかったが、分厚すぎるので断念。
結局、朝から夕方まで、一部の中断を除き、ほぼまる一日図書館にこもり、勉強してから帰宅。帰ったのは夕飯の頃とは相成った。
やっぱり説話に注釈をつけるよりも、和歌の方がわたしの性に合っている。和歌は継続的に授業でとりあげよう。次は拾遺和歌集、後拾遺和歌集だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿