垂渓庵です。
選挙が終わって気づけば自民党の一人勝ちだ。いや、立憲民主党も頑張った方だ。とは言っても大勢は動かない。
安倍さんは「国民の負託にこたえる」と言っているが、負託の中身をどう考えているのだろう。国民は「改憲→さらなる右傾化というか愛国心の強要」のような方向を望んでいるのだろうか。安倍さんは望んでいると思うけれど。
北朝鮮がきな臭いことになりつつあり、中国や韓国の反日行動がエスカレートする中で、アメリカがどう出るか、ロシアがどう出るか、不透明な状況だ。そんな中、選択肢がなかったが故に自民党に投票したという人も多いのではないかという気がする。それが負託の中身ではなかろうか。それは全面的な信認ではなく、ちょっと過激というか強硬な路線に走る危険性はあるけれど、他に受け皿がない中で仕方なく選ぶという消極的な選択だろう。
安倍さんに求められているのは、この混沌とした状況を切り抜けることだろう。その限りにおいては自衛隊の出動もやむなし、と思う人も多いかもしれない。が、それをフリーハンドの自由を与えられたと安倍さんは勘違いしやしないか。するような気がしなくもなくなくなくない。あれ。
2017年10月24日火曜日
2017年10月4日水曜日
旧暦8/15 今日は十五夜だ
垂渓庵です。
またもやご無沙汰してしまいました。どうもこれが常態化しつつある。こりゃ、記事を更新するのはかえってよくないのではないかと思ってみたり。ま、さすがにそれはないか。更新しなけりゃ、ただ単にブログをやめましたってことになる。やはりごくたま~にであっても更新することにはそれなりに意味があるのだ。
などと屁理屈を言うのはやめておこう。ここは謝るところだ。えっと、だれに。
ともかく忙しさにかまけてしまい、すみません。
というわけで今日は旧暦八月十五夜。中秋の満月ってやつだ。急に涼しくなったし、中秋の満月っぽいといえば、っぽい。
日が沈む頃に職場を出ることになろうから、ゆるゆると歩きながらお月さまを愛でて帰ることにしよう。
というわけで、近況報告。田川建三さんの「書物としての新約聖書」を電車で読もうと思ったのはいいが、やっぱり重い。電車で読もうとしたのは無謀だった。というわけで、そのまま職場に置いてあいるのだけれど、どうも忙しくて読めそうにない。これ、また持って帰んなきゃいけないのか。
というわけで、電車ではカルロ・ギンズブルクの「チーズとうじ虫」を読んでいる。再読だ。翻訳が少しよろしくない気がしなくもなくなくなくない。あれ。けれども、やはり面白い。
行きの大音量や帰りの大音量としては、ここんとこアート・ファーマー、ベニー・ゴルソンのJazztetのアルバムやディジー・ガレスピーのアルバムを聴いている。浪曲ももちろんいい。が、Jazzもいいのである。今日は何を聞こう。
ところで、ポケモンってかれこれ20年以上放送されている気がするけれど、サトシっていったいいくつだ。
ウルトラシリーズは一応シリーズごとにメインのウルトラマンが違ってた。登場人物もほぼ一新していたし。だからメビウスのように全体を一つの時系列にまとめようと思えばまとめることもできるわけだ。メビウスの作品世界の中では昭和のウルトラシリーズは全て史実だったのだ。
でもポケモンは…。サトシの相棒的な方々は定期的に変わってるようだけど、サトシは年齢ほとんど変わんないみたいだ。ものすごく短いサイクルで相棒変えてますっていうのならともかく、これまでのシリーズ全てを史実として一つの時系列にまとめ上げるのはちょっと無理だろう。平行世界にサトシがいっぱいいるって考えればなんとかあの年齢の変わらなさに説明がつけられるのかな。
ちなみに、じゃりン子チエでは、チエあるいはコアな登場人物は年をとらないけれど、周辺の存在は適度に年をとったりしていたはずだ。ミツルは独身だったけど途中で結婚したし、カルメラ兄弟もそうじゃなかったか。子供も生まれたはずだ。でも、チエはずっと小五だ。
ポケモンでは、周辺の人物が年取るエピソードってあったんだろうか。もしもそうならポケモンはじゃりン子チエ型の世界ってことになる。
やっぱり単純にサザエさんあるいはドラえもん的って考えればいいのかな。あれも登場人物は年をとらない。が、そう考えるには違和感が残る。サザエさんやドラえもんでは、周辺の人物がポケモンみたいにがらっと入れ替わったりしない。変わらぬ日常が変わらぬメンバーで延々と続いていくという感じだ。ポケモン、変わりすぎだろ。
あ、あれか。ポケモンはサトシが旅にあるのが常態だ。旅は漂泊、無常観と古来結びついている。だからポケモンは実は無常観に裏打ちされているんだ! 無常観が元にあるから相棒もころころ変わるんだ!
などというはずはない。ピカチュウとの友情、変わんないし。
ううん、どうでもいいことを考察するのはとても楽しい。
またもやご無沙汰してしまいました。どうもこれが常態化しつつある。こりゃ、記事を更新するのはかえってよくないのではないかと思ってみたり。ま、さすがにそれはないか。更新しなけりゃ、ただ単にブログをやめましたってことになる。やはりごくたま~にであっても更新することにはそれなりに意味があるのだ。
などと屁理屈を言うのはやめておこう。ここは謝るところだ。えっと、だれに。
ともかく忙しさにかまけてしまい、すみません。
というわけで今日は旧暦八月十五夜。中秋の満月ってやつだ。急に涼しくなったし、中秋の満月っぽいといえば、っぽい。
日が沈む頃に職場を出ることになろうから、ゆるゆると歩きながらお月さまを愛でて帰ることにしよう。
というわけで、近況報告。田川建三さんの「書物としての新約聖書」を電車で読もうと思ったのはいいが、やっぱり重い。電車で読もうとしたのは無謀だった。というわけで、そのまま職場に置いてあいるのだけれど、どうも忙しくて読めそうにない。これ、また持って帰んなきゃいけないのか。
というわけで、電車ではカルロ・ギンズブルクの「チーズとうじ虫」を読んでいる。再読だ。翻訳が少しよろしくない気がしなくもなくなくなくない。あれ。けれども、やはり面白い。
行きの大音量や帰りの大音量としては、ここんとこアート・ファーマー、ベニー・ゴルソンのJazztetのアルバムやディジー・ガレスピーのアルバムを聴いている。浪曲ももちろんいい。が、Jazzもいいのである。今日は何を聞こう。
ところで、ポケモンってかれこれ20年以上放送されている気がするけれど、サトシっていったいいくつだ。
ウルトラシリーズは一応シリーズごとにメインのウルトラマンが違ってた。登場人物もほぼ一新していたし。だからメビウスのように全体を一つの時系列にまとめようと思えばまとめることもできるわけだ。メビウスの作品世界の中では昭和のウルトラシリーズは全て史実だったのだ。
でもポケモンは…。サトシの相棒的な方々は定期的に変わってるようだけど、サトシは年齢ほとんど変わんないみたいだ。ものすごく短いサイクルで相棒変えてますっていうのならともかく、これまでのシリーズ全てを史実として一つの時系列にまとめ上げるのはちょっと無理だろう。平行世界にサトシがいっぱいいるって考えればなんとかあの年齢の変わらなさに説明がつけられるのかな。
ちなみに、じゃりン子チエでは、チエあるいはコアな登場人物は年をとらないけれど、周辺の存在は適度に年をとったりしていたはずだ。ミツルは独身だったけど途中で結婚したし、カルメラ兄弟もそうじゃなかったか。子供も生まれたはずだ。でも、チエはずっと小五だ。
ポケモンでは、周辺の人物が年取るエピソードってあったんだろうか。もしもそうならポケモンはじゃりン子チエ型の世界ってことになる。
やっぱり単純にサザエさんあるいはドラえもん的って考えればいいのかな。あれも登場人物は年をとらない。が、そう考えるには違和感が残る。サザエさんやドラえもんでは、周辺の人物がポケモンみたいにがらっと入れ替わったりしない。変わらぬ日常が変わらぬメンバーで延々と続いていくという感じだ。ポケモン、変わりすぎだろ。
あ、あれか。ポケモンはサトシが旅にあるのが常態だ。旅は漂泊、無常観と古来結びついている。だからポケモンは実は無常観に裏打ちされているんだ! 無常観が元にあるから相棒もころころ変わるんだ!
などというはずはない。ピカチュウとの友情、変わんないし。
ううん、どうでもいいことを考察するのはとても楽しい。
2017年4月6日木曜日
旧暦3/10 ディズニーランドに行ってきた
垂渓庵です。
唐突だけれど、ディズニーランドに行ってきた。家族サービスというやつである。春休み中ということもあったのか、えらいこと混んでいた。
知人の助言もあり、ファストパスを活用しながらアトラクションを楽しんだ。その楽しさなどについては書かない。みなさんご存じだろうから。とにかく、楽しかったけれど疲れたと言っておこう。
で、いくつもアトラクションを回っているうちに、何やら聞いたことのある声がする。西一だ。けど、「おなかすいたなあ」とかなんとか、標準語をしゃべっている。それにいなかっぺ大将のころからすると、ずいぶん恰幅もよくなっている。人格もまるっきり変わっているし。彼の人生に何があったんだろう。
さらにキテレツ大百科の八百八さんの声もする。いつの間にかガイドさんみたいな仕事をするようになったらしい。町の小さな八百屋さんだったから、経営的に厳しくなったのかな。近所にスーパーができたりしたのかもしれない。あるいは地上げか。しかし、よくも畑違いの職種に転職したものだ。がんばったんだろうな、八百八さん。
などということを夢想してしまうぐらい夢の国でした。
蛇足。子どもが買ったおもちゃが壊れていたんだけれど、その対応はすばらしいものだった。
唐突だけれど、ディズニーランドに行ってきた。家族サービスというやつである。春休み中ということもあったのか、えらいこと混んでいた。
知人の助言もあり、ファストパスを活用しながらアトラクションを楽しんだ。その楽しさなどについては書かない。みなさんご存じだろうから。とにかく、楽しかったけれど疲れたと言っておこう。
で、いくつもアトラクションを回っているうちに、何やら聞いたことのある声がする。西一だ。けど、「おなかすいたなあ」とかなんとか、標準語をしゃべっている。それにいなかっぺ大将のころからすると、ずいぶん恰幅もよくなっている。人格もまるっきり変わっているし。彼の人生に何があったんだろう。
さらにキテレツ大百科の八百八さんの声もする。いつの間にかガイドさんみたいな仕事をするようになったらしい。町の小さな八百屋さんだったから、経営的に厳しくなったのかな。近所にスーパーができたりしたのかもしれない。あるいは地上げか。しかし、よくも畑違いの職種に転職したものだ。がんばったんだろうな、八百八さん。
などということを夢想してしまうぐらい夢の国でした。
蛇足。子どもが買ったおもちゃが壊れていたんだけれど、その対応はすばらしいものだった。
2017年3月16日木曜日
旧暦2/18 ほとんど機能していない
垂渓庵です。
何ヶ月ぶりだろう。このブログ、ほとんど機能していない。機能していなくても迷惑をかけるところがあるわけではないけれど、機能させていない自分ががなんとも落ち着かない。
というわけで、最近源氏物語を読んでいる。と前の記事で書いたのかどうかさえ、すでに忘却の彼方だけれど、 とりあえず源氏物語を読んでいる。
学生の頃とは違い、時間も手間もかけていられないけれど、いろんなところが気にかかる。もちろん、注釈書を参看しつつ、マスダ先生や石田穣二さん、清水好子さん、阿部秋生さん、今西裕一郎さんらの諸論考に問題意識を喚起させられながら読むからで、わたしに初手からそんな生産的な読解力が備わっているわけではない。
が、ともかく、非常に興味深く読んでいる。大学の学部生の頃に源氏の講読の授業もとっていたけれど、こんな風に読むことはできなかった。余裕がなく発表に汲々としていた印象がある。何も分からないままにかろうじて見よう見まねで読んでいた。使い方はおろか用途すらよく分からない装置をとにかく動かせと言われていたようなものだ。
今は、使いこなすまでには到底至らないけれど、少なくとも基本の使い方やいちおうの用途ぐらいは分かるようになっているということなのだろう。
学ぶは真似ぶだとはよく言ったものだと思う。真似してやってみて、失敗して、また工夫して……。ということを繰り返してやっと入り口が見えてくる。見えてくるためには、後の努力ももちろんだけれど、最初の真似ぶところで手を抜いてはいけないのだと思う。手を抜いていたら、訳の分からぬ装置が手になじむことはなかった気がする。
そう考えると、就職のことなど四回生になるまで考えず、ひたすら浮き世離れした講読やら演習やらに浸ることができたのは、それはそれで幸運だったのかもしれない。やってる当時は苦痛に感じられることも多々あったのだけれど。
少なくとも学生の頃の延長のようなことをちまちまとやることがおあしを稼ぐことにつながるわたしとしては、何やら実学志向になっているらしい現在の大学で学ばなくてよかった、と思わなくもなくなくなくないわけである。あれ。
何ヶ月ぶりだろう。このブログ、ほとんど機能していない。機能していなくても迷惑をかけるところがあるわけではないけれど、機能させていない自分ががなんとも落ち着かない。
というわけで、最近源氏物語を読んでいる。と前の記事で書いたのかどうかさえ、すでに忘却の彼方だけれど、 とりあえず源氏物語を読んでいる。
学生の頃とは違い、時間も手間もかけていられないけれど、いろんなところが気にかかる。もちろん、注釈書を参看しつつ、マスダ先生や石田穣二さん、清水好子さん、阿部秋生さん、今西裕一郎さんらの諸論考に問題意識を喚起させられながら読むからで、わたしに初手からそんな生産的な読解力が備わっているわけではない。
が、ともかく、非常に興味深く読んでいる。大学の学部生の頃に源氏の講読の授業もとっていたけれど、こんな風に読むことはできなかった。余裕がなく発表に汲々としていた印象がある。何も分からないままにかろうじて見よう見まねで読んでいた。使い方はおろか用途すらよく分からない装置をとにかく動かせと言われていたようなものだ。
今は、使いこなすまでには到底至らないけれど、少なくとも基本の使い方やいちおうの用途ぐらいは分かるようになっているということなのだろう。
学ぶは真似ぶだとはよく言ったものだと思う。真似してやってみて、失敗して、また工夫して……。ということを繰り返してやっと入り口が見えてくる。見えてくるためには、後の努力ももちろんだけれど、最初の真似ぶところで手を抜いてはいけないのだと思う。手を抜いていたら、訳の分からぬ装置が手になじむことはなかった気がする。
そう考えると、就職のことなど四回生になるまで考えず、ひたすら浮き世離れした講読やら演習やらに浸ることができたのは、それはそれで幸運だったのかもしれない。やってる当時は苦痛に感じられることも多々あったのだけれど。
少なくとも学生の頃の延長のようなことをちまちまとやることがおあしを稼ぐことにつながるわたしとしては、何やら実学志向になっているらしい現在の大学で学ばなくてよかった、と思わなくもなくなくなくないわけである。あれ。
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