垂渓庵です。
すっかりごぶさたしてしまった。というのが常態となっている。ということも何度も書いた。変わりがないわけではないが、書く時間もない、ということでさくっと省略。
さて、SF作家の森下一仁さんのブログを見て、横田順彌さんが亡くなっていたことを知る。
そうか。お亡くなりになったのか。ここんとこ調子がずっとすぐれないということを何かで読んでいたので、驚愕したというわけでもないのだけれど、ショックがなかったわけでもない。
横田さんの作品を最初に読んだのは、ユーモアSFのアンソロジーの一編、「脱線<たいむ・ましん>奇譚」だったのではなかったか。内容についてはすでに忘却の彼方だ。たぶん読んだのは中学生のころ。もはや40年近く前のこととなる。
それ以後もつかず離れずという形で横田さんの本は読んでいったはずだ。「日本SFこてん古典」(1~3)をお出しになり、押川春浪をはじめとする明治ものをいくつもお出しになるあたりまでは、読み継いでいったように思う。ウィキペディアの著作一覧を見渡す限りでは、1990年ごろまではフォローしていたようだ。それ以後は、わたしも専門の研究やアフリカンのパーカッションにのめりこんでいき、そちらに多くの時間を割くようになったのだったか。
90年代以降は横田さんの新刊を手に取ることもなくなっていった──というか、SFそのものを手に取ることもなくなっていった。海外SFで言うとサイバーパンクあたりまでか──のだけれど、「第一種失禁遭遇」だの「アレ・オランガナ姫」だの「ルーム・スカイランナー」「オオ・バッカ」「ゼン・ソロ」「アカン・ベーダ―」「スター坊主」などなどのくだらなくもステキなダジャレは今でもいくらでも諳んじられる。田中啓文さんが好きなのも確実に横田さんがいたからだと言える。
一方で古典SFの研究にも興味をひかれた。最近はそちらの方面に傾斜しておられたようだけれども、そうなる以前から主流文学から外れたところの作品の面白さを横田さんを通して知っていったように思う。「日本SFこてん古典」を単行本3冊揃いで持っているのは私のひそかな自慢だ。一時期古書価がべらぼうに高かったと記憶している。
横田さんの前にこんな研究分野はなかったし、現在でも横田さんの研究は一級の価値を持っている。たぶん。書誌的なデータをおろそかにせず、しかも面白おかしくSF前史を語る人だった。横田さんがいなければ、中山忠直の「地球を弔ふ」などはきっと知らないままだったろう。
こうやって見てくると、横田さんはおれの人格形成期に少なからぬ影響を与えているようだ。北杜夫然り。星新一然り。カート・ヴォネガット然り。みんな鬼籍に入ってしまった。
改めて横田さんの冥福を祈る。今日は久しぶりに「日本SF古典集成」でも拾い読みしてみようか。
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