2022年2月28日月曜日

旧暦1/28 黒い本の楽しみ

 垂渓庵です。

 少し時間ができたので久々に黒い本を読んでみた。黒魔術の本というわけではない。以前書いたことがあると思うが、古本で出回っている専門書とでも言えばいいだろうか。と書いてふと気になったので少しネットで検索をかけてみたが、それらしい言い方が出てこない。黒い本という言い方はおれの勘違いかも知れないが、面倒なのでそういう意味なのだと言うことにしておこう。

 で、その黒い本である。おれの読む本なので、当然国語学や国文学の分野の本だ。それを読んでいると、時に「あなた何を言っていますか?」と言いたくなる部分がある。べつに著者が悪いわけではない。おれの理解力が低くて、著者の言いたいことがすぐには分からないのだ。で、そういう箇所をじっくり読んでみると著者の言いたいことがはっきり分かることがある。黒い本の楽しみの一つである。

2022年2月18日金曜日

旧暦1/18 お役所仕事、ひどくねえか

 垂渓庵です。

三回目のワクチンのクーポンが先日届いたのだが、接種可能日が4月末日になっている。えらいこと先じゃんと思っていると、娘の担任の先生が明日ワクチン接種に行くと言っていたらしいことを知る。そういや教育関係者は早くにうてるのだっけかと思い出し、だめもとで市のワクチンダイヤルというやつに電話してみたところ衝撃の事実が発覚した。

なんとクーポンその他封筒の内容一切は前回のワクチン接種の八ヶ月後にワクチン接種が可能だった時点での刷り物らしく、全部の情報を2ヶ月前倒しにしてくれというものだった。ということは、おれの場合は接種の可能日は2月21日からとなる。なんじゃそら。すぐじゃん。

ちなみに、そのような訂正が必要だという刷り物の一つでも入っていればまだしも、そんなものは一切入ってない。後追いで葉書が届くということもない。ひどくねえか。ということは、だ。クーポンの指示が正解だと頭から信じてその日付を待って予約を入れる人がいるに違いない。いや、下手すりゃそんな人の方が多いことも考えられる。たぶんわが市だけがそんな理解不能な対応をしているとは思えない。お役所仕事もここに極まれりだな。そりゃ3回目の接種が進まないはずだ。なんというバカな話か。 

みなさんもいつから接種可能か、よく確認した方がよいですよ。

2022年2月15日火曜日

旧暦1/15 引き締める

垂渓庵です。

 最近、朝に家を出る時刻が少し不規則になっている。これまではコロナの影響による時差出勤の関係で、朝5時頃には家を出ていた。ラッシュの時間帯より前に職場に着くためだ。逆に夕方は15時過ぎに職場を後にすることが多かった。もっとも時間割の関係でその時間に職場を後にできるのは週に2日、運がよくて3日程度だったのだけれど。

それが今ではラッシュに重なる時間帯に家を出ることもしばしばだ。 これはあれだ。完全にコロナに対する警戒心の緩みに起因している。オミクロン株の流行につれて陽性者が爆発的に増えている一方で無症状~軽症で住む人の割合が増えてきていることにもよる。

そうは言っても両親は高齢者だし、おれもワクチンの三回目を接種していない。ちょっと気持ちを引き締めて、通勤時間をコロナの最盛期の頃の状態に戻そうと思っている。

2022年2月14日月曜日

旧暦1/14 文学史

 垂渓庵です。

 古典あるいは現代文の授業をしていて、毎年処置に困るのが文学史だ。センター試験(共通テスト)を視野に入れた場合、さほど重要ではないが、さりとて文学史的な内容を問う大学がないわけではない、という悩ましい位置にあるのが、文学史である。

 無視するわけにもいかず、さりとて あまり深入りしても入試での出題頻度を考えるとコスパが悪いのである。というわけで、古典を担当するにしろ、現代文を担当するにしろ、授業を2、3回費やして最低限の説明をするようにしている。ま、どだい2、3回程度で千数百年以上にわたる長い期間の文学史や、近代以降の膨大な作品が作られる時代の文学史をカバーしきれるわけがない。骨子だけを伝えて、受験に必要な度合いに応じて生徒に作品名や作者名を補ってもらうことにしている。

 と言っても乱暴な骨子なのだけれど、最低限のターニングポイントだけは伝えるようにしている。力業で文学史を強引にねじ伏せなければならないので、この時期なのに授業を終えると汗をかいている。普段のおれの省エネスタイルと違って熱演と言えるだろう。いや、おれの言っていることは本当か、と冷や汗を流しているのだという説もあるが。

2022年2月4日金曜日

旧暦1/4 世界と趣向

 垂渓庵です。

 気づけば旧正月になっている。まったく時って奴は油断するとすぐに経ってしまう。

「異世界美少女受肉おじさんと」という変な題名のアニメが今放映されている。ま、異世界転生ものと言っていいのだろうが、ちょっと変わった作品で、思わず吹き出してしまう描写がなされている。詳細は省くが、異世界転生ものであるという点では「リゼロ」や「無職転生」などと同じ範疇に属してるが、おっさんが美少女に転生するという独自部分を持っていると言えそうだ。

 「リゼロ」には主人公が死ぬことで出来事に変更を加えることができるという独自部分があるし、「無職転生」は、無職のひきニートが転生することにより諸々の状況や感懐が生まれるという独自部分を持っている。

 こうやって見ると、異世界に転生するという大枠(世界)があり、それを踏まえてそれぞれの作者が独自の味付け(趣向)をして作品を作っていると言うことができそうだ。S口先生がよく言っていた「世界」と「趣向」の概念で最近のアニメやらラノベやらマンガやらは説明できるのかも知れない。 しらんけど。

2022年2月3日木曜日

旧暦1/3 読書はどこに行ったか

 垂渓庵です。

この間、かなり前に読んであった本を再び読み直す機会があった。復習のようなつもりでいた。しかし、である。前に読んだ時に引いてあった傍線の部分を見ても、琴線に触れるというか、記憶の底を引っかかれるというか、そういうところが全然ない。ものの見事にきれいさっぱり忘れている。いっそ見事と言っていいくらいだ。こんなのは復習と言わないんじゃないか。

おれは思った。これまでに読んだ本が全部こんな調子だったらどうしよう。いささか不安である。というか、それ以前に、こんな状態を「読んだ」と言っちゃいけないだろう。個々の内容は忘れて、エッセンスだけがおれを形作っているとでもいうのか。しかし、読んだ本のエッセンスだけを残すほどおれの頭が優秀だとは思えないし、エッセンスを残して今の状態なのだとすれば、おれの頭はポンコツ過ぎる。

何とも割り切れない話ではある。
 

2022年2月2日水曜日

旧暦2/2 神仏習合

 垂渓庵です。

 神仏習合という現象がある。簡単にいうと、日本のやおよろずの神様たちを仏教の仏さんや菩薩さんと結びつけて理解しようとする営為のことだ。たとえば、伊勢に鎮座まします「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を「大日如来(だいにちにょらい)」と同一視するような理解の仕方を言う。本地が「大日如来」で垂迹が「天照大神」だと言われたりもする。いわゆる本地垂迹思想というやつである。

 ことほどさように日本では仏教と神道とが切っても切れない間柄だった。それは下々の者の意識にまで及んでいたと言っていいだろう。七福神の中には「えびすさん」のようにもともと日本の神様である方もいれば、「弁財天」や「毘沙門天」のように仏教系の神様(?)もいるし、「寿老人」や「福禄寿」のように道教由来らしい神様もいる。「布袋さん」は弥勒菩薩の化身と言われている。七福神、えらいことグローバルじゃないか。

 良くも悪くもそういう習合状態だった神様と仏様を強引に分離しようとしたのが明治時代の廃仏毀釈運動だ。文字通り「仏さんを廃し、お釈迦さまを毀(こわ)」そうとした訳だ。習合状態の神さまと仏さまは、おそらくそのごっちゃになった状態でご先祖様に受け入れられ、血肉となっていたはずなのに。 明治時代がいかにそれ以前と以後とを断絶させたかは、この例を見ても分かる。近代化には必要なことだったのかも知れないけれど。しかし、長い目で見た場合、グローバリゼーションに反していやしないのか?