字余りについての説明を続けてみよう。ちょっと難しいかもしれないけれど、我慢してついてきて下さい。
和歌の句中に単独母音が表れる場合も同様の傾向というか原理というかが働くのだと考えれば、特に古い和歌において字余りを生じている場合には高い確率で句 中に単独母音が含まれているわけも理解できるのではないかと思います。さらに言うと、字余りが生じていても母音が一つ消えるわけですから、口に出して発音する場合には、字余りになっているけれども、音余りにはなっていないのではないかと考えることができます。
ところで、この母音同士の接触を避けるという傾向のために、古代の日本語では、途中や末尾に単独母音を含む単語は存在しませんでした。現代では発音の体系 なども変化してしまっていますので、そうはなっていませんが。古語辞典をお持ちの方は一度パラパラとめくってみて下さい。漢語由来のものででも無ければ、語中や語尾に単独母音を含む語は存在しないことがわかるはずです。
ところで、万葉集でこの字余りについて調べてみると面白いことがわかります。万葉集歌全部はとても紹介しきれませんので、巻一の短歌の例を次に書き出して みます。便宜上、句中に単独母音があって字余りが生じている場合は赤字で、句中に単独母音があるけれども字余りが生じていない場合を青字で表します。引用元は塙書房の『萬葉集 本文編』、番号は旧国歌大観の番号です。
たまきはる うちのおほのに
うまなめて あさふますらむ そのくさぶかの 4
やまごしの かぜをときじみ
ぬるよおちず いへなるいもを かけてしのひつ 6
あきののの みくさかりふき
やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ 7
にきたつに ふなのりせむと
つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな 8
わがせこは かりいほつくらす
かやなくは こまつがもとの かやをからさね 11
みわやまを しかもかくすか
くもだにも こころあらなも かくさふべしや 18
むらさきの にほへるいもを
にくくあらば ひとづまゆゑに あれこひめやも 21
かはのへの ゆついはむらに
くさむさず つねにもがもな とこをとめにて 22
うちそを をみのおほきみ
あまなれや いらごのしまの たまもかります 23
よきひとの よしとよくみて
よしといひし よしのよくみよ よきひとよくみ 27
ささなみの しがのからさき
さきくあれど おほみやひとの ふねまちかねつ 30
ささなみの しがのおほわだ
よどむとも むかしのひとに またもあはめやも 31
いにしへの ひとにわれあれや
ささなみの ふるきみやこを みればかなしき 32
これやこの やまとにしては
あがこふる きぢにありといふ なにおふせのやま 35
みれどあかぬ よしののかはの
とこなめの たゆることなく またかへりみむ 37
あみのうらに ふなのりすらむ
をとめらが たまものすそに しほみつらむか 40
あきののに やどるたびひと
うちなびき いもねらめやも いにしへおもふに 46
まくさかる あらのにはあれど
もみちばの すぎにしきみが かたみとそこし 47
かはのへの つらつらつばき
つらつらに みれどもあかず こせのはるのは 56
よひにあひて あしたおもなみ
なばりにか けながきいもが いほりせりけむ 60
あしへゆく かものはがひに
しもふりて さむきゆふへは やまとしおもほゆ 64
あられうつ あられまつばら
すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも 65
おほともの みつのはまなる
わすれがひ いへなるいもを わすれておもへや 68
みよしのの やまのあらしの
さむけくに はたやこよひも あがひとりねむ 74
うぢまやま あさかぜさむし
たびにして ころもかすべき いももあらなくに 75
ますらをの とものおとすなり
もののふの おほまへつきみ たてたつらしも 76
わがおほきみ ものなおもほし
すめかみの つぎてたまへる わがなけなくに 77
とぶとりの あすかのさとを
おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ 78
あをによし ならのいへには
よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 80
うらさぶる こころさまねし
ひさかたの あめのしぐれの ながれあふみれば 82
わたのそこ おきつしらなみ
たつたやま いつかこえなむ いもがあたりみむ 83
一見してわかるように(わかりにくいかもしれませんが落ち込み)、第一、三、五句の句中に単独母音が出現するときはほぼ百パーセント字余りを生じていま す。一方、第二、四句の句中に単独母音が出現するときは、字余りになる例もありますが、半数以上は字余りを生じていません。このことはいったい何を物語るのでしょうか。
わたしが学生だった頃の知識で言うと、それは和歌の唱詠法──節回しや抑揚などと考えればいいでしょうか──の差ではないかと説明されていました。単純化 して言うと、第一、三、五句は、単独母音の接触を避けるという日本語の特徴と一致する唱え方で、第二、四句は、それぞれの文字をひとつひとつ独立して発音するような唱え方だったということです。
具体的な唱詠法自体は残念ながらわかりませんが、字余りという現象から、既に失われてしまった唱詠法を考察する手がかりが導き出されるなんて面白いと思いませんか?
和歌の句中に単独母音が表れる場合も同様の傾向というか原理というかが働くのだと考えれば、特に古い和歌において字余りを生じている場合には高い確率で句 中に単独母音が含まれているわけも理解できるのではないかと思います。さらに言うと、字余りが生じていても母音が一つ消えるわけですから、口に出して発音する場合には、字余りになっているけれども、音余りにはなっていないのではないかと考えることができます。
ところで、この母音同士の接触を避けるという傾向のために、古代の日本語では、途中や末尾に単独母音を含む単語は存在しませんでした。現代では発音の体系 なども変化してしまっていますので、そうはなっていませんが。古語辞典をお持ちの方は一度パラパラとめくってみて下さい。漢語由来のものででも無ければ、語中や語尾に単独母音を含む語は存在しないことがわかるはずです。
ところで、万葉集でこの字余りについて調べてみると面白いことがわかります。万葉集歌全部はとても紹介しきれませんので、巻一の短歌の例を次に書き出して みます。便宜上、句中に単独母音があって字余りが生じている場合は赤字で、句中に単独母音があるけれども字余りが生じていない場合を青字で表します。引用元は塙書房の『萬葉集 本文編』、番号は旧国歌大観の番号です。
たまきはる うちのおほのに
うまなめて あさふますらむ そのくさぶかの 4
やまごしの かぜをときじみ
ぬるよおちず いへなるいもを かけてしのひつ 6
あきののの みくさかりふき
やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ 7
にきたつに ふなのりせむと
つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな 8
わがせこは かりいほつくらす
かやなくは こまつがもとの かやをからさね 11
みわやまを しかもかくすか
くもだにも こころあらなも かくさふべしや 18
むらさきの にほへるいもを
にくくあらば ひとづまゆゑに あれこひめやも 21
かはのへの ゆついはむらに
くさむさず つねにもがもな とこをとめにて 22
うちそを をみのおほきみ
あまなれや いらごのしまの たまもかります 23
よきひとの よしとよくみて
よしといひし よしのよくみよ よきひとよくみ 27
ささなみの しがのからさき
さきくあれど おほみやひとの ふねまちかねつ 30
ささなみの しがのおほわだ
よどむとも むかしのひとに またもあはめやも 31
いにしへの ひとにわれあれや
ささなみの ふるきみやこを みればかなしき 32
これやこの やまとにしては
あがこふる きぢにありといふ なにおふせのやま 35
みれどあかぬ よしののかはの
とこなめの たゆることなく またかへりみむ 37
あみのうらに ふなのりすらむ
をとめらが たまものすそに しほみつらむか 40
あきののに やどるたびひと
うちなびき いもねらめやも いにしへおもふに 46
まくさかる あらのにはあれど
もみちばの すぎにしきみが かたみとそこし 47
かはのへの つらつらつばき
つらつらに みれどもあかず こせのはるのは 56
よひにあひて あしたおもなみ
なばりにか けながきいもが いほりせりけむ 60
あしへゆく かものはがひに
しもふりて さむきゆふへは やまとしおもほゆ 64
あられうつ あられまつばら
すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも 65
おほともの みつのはまなる
わすれがひ いへなるいもを わすれておもへや 68
みよしのの やまのあらしの
さむけくに はたやこよひも あがひとりねむ 74
うぢまやま あさかぜさむし
たびにして ころもかすべき いももあらなくに 75
ますらをの とものおとすなり
もののふの おほまへつきみ たてたつらしも 76
わがおほきみ ものなおもほし
すめかみの つぎてたまへる わがなけなくに 77
とぶとりの あすかのさとを
おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ 78
あをによし ならのいへには
よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 80
うらさぶる こころさまねし
ひさかたの あめのしぐれの ながれあふみれば 82
わたのそこ おきつしらなみ
たつたやま いつかこえなむ いもがあたりみむ 83
一見してわかるように(わかりにくいかもしれませんが落ち込み)、第一、三、五句の句中に単独母音が出現するときはほぼ百パーセント字余りを生じていま す。一方、第二、四句の句中に単独母音が出現するときは、字余りになる例もありますが、半数以上は字余りを生じていません。このことはいったい何を物語るのでしょうか。
わたしが学生だった頃の知識で言うと、それは和歌の唱詠法──節回しや抑揚などと考えればいいでしょうか──の差ではないかと説明されていました。単純化 して言うと、第一、三、五句は、単独母音の接触を避けるという日本語の特徴と一致する唱え方で、第二、四句は、それぞれの文字をひとつひとつ独立して発音するような唱え方だったということです。
具体的な唱詠法自体は残念ながらわかりませんが、字余りという現象から、既に失われてしまった唱詠法を考察する手がかりが導き出されるなんて面白いと思いませんか?
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