垂渓庵です。
もはやごくたまの更新が日常化しつつある。弁解のことばもない。スマヌスマヌ。
宮大工の故西岡常一棟梁のファン──いるのか?──には周知のことだろうが、棟梁は、農業高校に通っていた。同じく宮大工だったおじいさんの強い希望によるものだった。棟梁が対談本で語っているところによると、木を扱う者はまず土を知らねばならぬ、という考えがおじいさんにはあったのではないかということだ。
迂遠、と言えば迂遠なことだと言えるかもしれない。ことに、大学でも社会に出て即役に立つ勉強が求められる昨今の風潮では。世の中的にはそれを実学と呼ぶようだけれど、どうも違うんじゃないかという気がしないでもなくなくなくない。あれ。
棟梁は、農業高校に通った結果、社寺仏閣の修理・建立に必要な樹齢100年以上の木を、植生なども考えながら選ぶことができるようになった。棟梁として仕事をする際に役に立つ、非常に生きた学問をすることができたのである。
わたしは、このようなことこそ実学ではないかと思うものだ。それは、社会に出てすぐに役立つスキルというような近視眼的なものではない。そもそも、棟梁自身、いや、棟梁のお父さんも、ゆくゆくは宮大工としてやっていく棟梁にとって、農業高校に通う必要などないと思っていたのだ。
もちろん、今は、将来就く仕事があらかじめ決まっている、ということはまずない時代だ。生きた学問というものの意味合いも棟梁の頃とは変わっていよう。が、それは、将来その人の人生を振り返ってみたときに、「ああ、これはこんな風に自分の人生と関わってくる勉強だったのだ」、「ああ、あの時のあれがこんな風に役に立ってくれていたんだ」というように振り返ることができるものであって、目先の就職に有利だ、などというものではないように思う。何というか、時代はどんどん馬鹿な方向に進んでいるような気がしなくもなくなくなくない。あれ。
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