垂渓庵です。
『仏教漢文の読み方』という本を読んでいる。必要に迫られているわけではない。趣味で、としか言いようがない。面白いかというと、面白い。わたしはためにする読書があまり好きではない。同様に、面白くないものを無理矢理読むというのもやはり好まない。時には我慢して読むこともないではないけれど、そこはそれ、何となく面白くなりそうな予感がしたり、無理くり小難しい本を読んでいる自分に酔うこともあったりで、それなりに読んでいく動機付けというものがある。
ということはここでの本筋ではない。著者の金岡照光さんが挙げている話の中に、漢文のお経をそらんじている人も、内容については和讃など経由の知識が主で、経典の漢文をきちんと読んで理解している人は案外少ないよね、ということが書かれていた。もちろん、こんな砕けた書き方をしておられるわけではない。この本はもっときちんとした本です。
そのくだりを読んでいて思い出した。たしか中学か高校の頃、うちにあった法華経を訓読した形のお経にいったい何が書かれているのか気になった。何らかの真理でも書かれているのかもしれないと思ったんじゃなかったか。で、母に質問してみたところが、あまりはかばかしい答えが返ってこない。なんといい加減なと思わなくもなかったが、答えが返ってこないのだから仕様がない。
で、何をしたかというと、岩波文庫の法華経を買って読んだのだ。サンスクリットかパーリ語からの訳と漢訳とが対照されていたのではなかったか。口語訳は厳密な意味での漢訳の翻訳ではなかったので、少し丁寧に対照させて読むとずれが目についたけれど、そんなことは気にせず読んだ。そして、法華経って妙な本だと思った。だって、このお経はすごいぞというようなことが何回も書かれていたのだから。ああ、だから妙法蓮華経なのかと得心した、というのは嘘で、なんでこんな風に書かれているんだろうとは思ったものの、それっきりとなってしまったのだった。
というようなどうでもいい記憶が金岡さんの本を読んでいて呼び起こされた。他のお経には何が書かれているのか気にならなくもないけれど、もうあの頃のように無理くり長いものを読み通す気力はないだろうなあ。
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