2014年1月2日木曜日

旧暦12/2 西岡棟梁と上武豊太郎校長

少しは更新頻度を上げようと思っている垂渓庵です。今年もよろしくお願いします。

前々回触れた西岡常一棟梁のCDブックの話題を続けよう。

CDブックの1巻目は、「法隆寺棟梁の家に生まれて」という副題がついている。棟梁の前半生について聞くというものだ。その中に、当時の上武豊太郎校長の話が出てくる。



棟梁の在学当時、校長は農業経済の授業を受け持っていた。

わたしは農業にも経済にも疎い。が、疎いながらも、校長先生の話は、今の農業にはあてはまらないものだろうということは予想がつく。

校長先生は、あらあら以下のような話をしたそうだ。

農業経済の教科書には、最小の労費をもって最大の結果を得るということが書いてあるが、我々農人の根本は、一人の働きで日本人を何人養えるかということだ。それが農人の基本であり、経済の根本だ。

この校長の発言は、農業の効率化や大規模化を否定するものではないと思う。が、何のための農業なのかということを考えた時、単純に金儲けのためにやるのではない、ということがはっきり示されている。ある種の気概というか、最低限のモラルのようなものが根底になければならないと言っているのだ。

もちろん、棟梁が農学校に通っていた頃は、国に対する考え方や態度が今とは異なっている。古臭い、事大主義的な考えだと言えば言えるだろう。しかし、農業が人間の生存に直接関わるものである以上、この態度はとても大切なんじゃないかと思う。一時的な金儲けや投機の対象にしてはいけない、ということをこの上武校長のことばは教えてくれているのだ。それは、我々教育に携わっている者についても同様だ。教育は本来金儲けの手段であってはいけないのだ。

もちろん農人も教育関係者も仙人ではない。飯を食わねばならないし、少しでもいい暮らしをしたいという欲求もある。が、一般企業のように利潤追求を第一にしてはいけないのではないかという気がしてならない。もちろん、そのためには、それらの産業を国全体としてどうしていくかを考えないといけないだろう。いわゆる社会的共通資本というやつだ。

わたし自身私学で教えて飯を食っているわけで、学生確保のための競争に荷担していると言えるわけだけれども、大学入試に合格できる国語力を身につけてやるだけではなく、その過程で、自分で考える力を生徒たちが少しでも養っていけるようにしないといけない、と最近強く思うようになっている。そのためにどうすればいいか、成案はない。いろいろ試みているところだ。

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