垂渓庵です。
この前バスの中であったという会話。
「古文の予習をしないといけない!」
「そんなのネットで探したら見つかるでしょ?」
「それが、どこにもないのよ」
今はネット社会だ。うまく使えば、多大の恩恵を与えてくれる。が、インターネット依存症なることばがあるごとく、使いようによっては、大きな弊害がある。
ところで、上の会話で予習をしなきゃと言っているのは、たぶんわたしが古文を教えているクラスの生徒だ。どうしてそんなことが分かるのか。
実は、と言うまでもなく、教科書や問題集に現れる古文の教材は、定番どころであることが多い。今昔物語集に徒然草、方丈記に伊勢物語、学年が進むと、大鏡や源氏物語。みなさんも学生時代に習ったことがあるのではないか。わたしも同じだ。
わたしが高校で古文を習ったのは、すでに三十年以上前。それなのに、この変わらなさはどうだろう。もちろん、古文で新たな作品が書かれることはない。すでにあるものの中から、難易度と作品の内容的な深さを天秤にかければ、どうしても似たり寄ったりの作品になるのは、やむを得ないと言えばやむを得ない。
しかし、である。今やネット社会。それらの比較的一般的な作品は。さまざまな方がネットで紹介や口語訳、注を発表しておられる。今の高校生諸君は、労せずしてそれらの果実をふんだんに享受できるのである。
それで学生の古語力──そんなことばはないけれど──がつくのならば、わたしにも否やはないけれど、残念ながら、最初から他人におんぶに抱っこでは、古文を読めるようにはならない。やはり、面倒だけれど、自分で訳さないといけないのである。
今や世を挙げてネット社会だ。生徒の家庭も当然インターネットの恩恵に浴していよう。生徒相手にネット禁止令など出せるはずもない。それでは時代錯誤というものだ。読む文章はえらいこと古い時代の文章なのだけれど。
また、超凄腕のハッカーでもないわたしが、教材の訳や注釈などをネット上から片っ端から削除するのも不可能だ。それに、そんなことをした日には、わたしは犯罪者だ。たぶん。
で、わたしは考えた。ネットに訳が出てないような作品を読めばいいじゃん。思いついた時は、妙案だと思った。でも、そのおかげでえらい苦労をすることになった。 この稿続く。
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