2015年6月24日水曜日

旧暦5/9 良心的兵役忌避を考える

垂渓庵です。

この国で徴兵制が実現するようになったとしよう。別にそうなってほしいわけではないけれど、というよりも、なってほしくはないけれど、総理におかれては、そのような状況もまた良し、と思っておられるに違いない、と思われなくなくなくなくないので──あれ? ──、そういう状況も考えておかないといけないのかな、と思ったりするわけである。

で、徴兵制が実現するようになった場合のことである。思想信条信仰等々からする徴兵拒否を希望する人はきっといるはずだと思う。そういう人たちへの取り扱いはどうなるのだろう、と少し気になるのである。

欧米の例を見る限り、いわゆる良心的兵役忌避あるいは拒否者には、一年前後の社会福祉活動が義務づけられているようだ。

さて、この国の場合。為政者が率先して、国旗などへの敬意や愛国心を、道徳の名の下に強制しようとしている。

国旗に敬意を払うなとは言わないし、愛国心を持つなとも言わない。 わたしはどちらかというと逆の意見を持っている。あの旗の下に国のために多くの人が死んでいるのだ。肯定するにせよ否定するにせよ、しかるべき敬意を払うのは当然だろうと思うし、自分が生まれ育った土地になにがしかの愛情を持つのもまたあたりまえだと考える。

でも、それらはあくまでも自発的に出てくるべきものだ。法律や規則で強制されるべきものではない。今愛国心が十分でないと主張する人は、自発的な愛国心を育むことのできなかった国作りを、真っ先に恥じるべきだ。そして自分の力の至らなさを懺悔すべきだ。「こんな国にしてごめん」と。「いや、これまで自分はこの国の進路を決めうる立場にはなかった」などと言い訳する人には愛国心を云々する資格などない。そんなやつはきっと他人の思想信条など一顧だにしないことだろう。

と考えてみると、この国で徴兵制が実現したとして、良心的兵役忌避者は、肩身の狭い立場に追いやられるだろうという予想がつく。 旧日本軍の制度を参考にする限り、わたしは徴兵されることのない年齢に達しそうなのだけれど、それはそれとして、良心による兵役忌避が疎まれそうな昨今の状況を見る限り、徴兵制の導入には反対するしかないなと思ってみたりするわけだ。

徴兵は、政治家も含めて日本人がもっと成熟するまでお預けにしておくほうがいい。

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