2015年8月4日火曜日

旧暦6/20 夏休みを考える

垂渓庵です。

先日ようやっと夏休みに入った。補習やクラブなどでずるずると出校し続けていたのである。

夏休みなんだからしっかり休みましょうと思うのだが、時間があるからさまざまなイベントが気軽につっこまれる。そうしたい気持ちは分からないではないけれど、使えそうな素材文を新規に探したり、少しは教材研究をすることもある身としては、実は迷惑であったりもする。いや、それ以上に、夏の間に生徒にしっかり自学自習の癖をつけさせないといけないんじゃありませんかい、と強く思う。どこまでも学校におんぶに抱っこでは、いざ入試を前にして、やたらに塾予備校に頼り切るってことになってしまう。

もちろん、手のかけなさ過ぎもよくない。かなり前に卒業させた学年のことを思い出してみると、国語と英語は普段の補習もしたけれど、休みはしっかり自分で勉強するように指導していた。一方数学は、普段補習もしないし、特に勉強に取り組む姿勢についてこれといった指導もしていなかった。さんざん横からせっついても頑として動かなかった彼の意図は謎である。そんなことをやってできてもしようがない的なことを言っていたけれど、何のご託だという感じだ。

案の定、高三になって国語や英語で塾予備校に行く者はほとんどいなかった。そりゃそうだろう。そこまでしっかり力をつけてきたのだから、その延長でがんばりゃいいだけだ。一方の数学は、上位クラスでも塾予備校に行く者の嵐である。遅まきながら補習をした彼は、成績が上がってきたのを自慢していたが、そりゃ塾予備校で力をつけてもらったのだ。もちろん、こちらも大人なので、本人に直接指摘してあげた。今は別の学年で補習をやっているみたいだ。

話が逸れた。夏のまとまった休みは貴重だ。生徒にとっても。教員にとっても。どうせだらだらしているだけだ、色々やらせておけと発想する御仁は、自身が無為に夏休みを過ごしてきた、と告白しているも同様だ。

もちろん、だらだら休みが悪いわけではない。むしろ必要な面もある。わたしの場合、まとめて本を読むいい機会でもあり、だらだらできる夏休みは本当にありがたかった。

わたしの勤務校はいちおう進学校なので、勉強させないといけない。が、それは自主的なものである必要があり、学校での拘束時間を長くすればいいというものではない。最低限やるべきことをやって、その上で自分で好きなように時間を使うように生徒を動機づけるのが、学校的にはいちばん望ましいことではないかと思うのだけれど、今や我が勤務先はおろか、世の中全体が逆の方向に向かって突っ走っている気がする。この国はどこへ行こうとしているのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿