垂渓庵です。
ここしばらく忙しくて、更新を怠っていました。すまぬすまぬ。さて、先日の嘉納治五郎の聞き書きの続きだ。
○福田先生は、当時四十歳位、幕府の講武所世話係をやっていたが、なかなかしっかりした腕を持っていたね。ここへ弟子入りしたわしは雨の日も風の日も毎日開成学校の寄宿舎から熱心に通ったよ。道場といったって八畳のお座敷で、しかも火鉢やら、つづらやらが置いてあるので正味四畳ぐらいしかない狭さ。弟子といってはわしの外に青木某という青年が一人いるだけで、そこで締めや逆手を一生懸命に稽古したものだよ。真揚流というのは締めと逆手専門で、柔道着といえば今のような立派なものはなくて皆手製でわしは姉さんに塗ってもらったが、破れた時はいつも凧の麻糸で自分でつづったものさ。その時の柔道着は、今でも記念に保存してあるよ。(p163-164)
偶然探し当てた人形町の接骨医がたまたま天神真揚流の達人福田八之助だったと直前に書かれている。ちなみに、ウィキペディアなどでは、「天神真楊流」と表記されている。
開成学校は後の東大の前身の一つ。治五郎は東大卒のようなので、在籍中に東大に改組されものと思われる。
それはともかくとして、天神真揚流が締めと逆手専門の流派だったというのが面白い。そんな専門があるなんて。さらに次回引用する記述を見ると、投げ専門の流派があったことが知れる。
柔道着もお手製だったというのは、いかにも時代を感じさせる。治五郎が保存していたという柔道着はまだ残っているんだろうか。一度見てみたい気がする。
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