垂渓庵です。
原発容認か反対か、それが何か踏み絵のようになっているという気がする。
わたしは、原発はなくなるのが望ましいとは思っている。大量の高レベル廃棄物を二十万年も保管しなければならないことを考えると、そんなものはない方がいい。そういう意味では反対派だということになるだろう。
しかし、廃炉処理が経済や環境に及ぼす影響を考えた時、現実的には危険性の高いものから順に段階
的に縮小する、という方法しかないとも思っている。その点では容認派だということになるのかもしれない。
いずれは縮小していくとして、安全性の評価や管理がきちんと行われるなら、当面存続させればいい、それがわたしの結論ということになるが、そのためには、電力業界べったりの行政の体質を
改めないといけない。そこらをはかる試金石が原子力規制委員会の出す敦賀原発などの調査結果の取り扱いになるはずだ。
ともあれ、たぶん純粋の反対派の方たちから見ると、わたしは不徹底な容認派だと映るだろう。混じりっけなしの容認派の方たちにしてみたら、わたしは容認派のふりをしている反対派だということになるだろう。
しかし、そういう硬直した態度が結局のところ事態をより悪い方向に進めてしまいかねないということを忘れてはいけない。そんなことを言っている間に事態は進行してしまうのだ。そこんところを原理主義者の方々にはもっと考えてほしいと思う次第だ。敵か味方かというような小児的な言い合いはいい加減にやめてもらいたいと思う。原理主義者というのは、この場合両方の極端にいる方々を指している。片方だけではない。
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