2013年1月11日金曜日

旧暦11/30 原発は技術革新によって安全になるか

垂渓庵です。

小松左京のショートショートだったと思う。ポータブル原子炉のような形で原子力をごく手軽に扱えるようになった時代。遠足に行った小学生(?)が、石油コンビナートか精油所の爆発事故に遭遇し、化石燃料を扱っていた時代の野蛮さを実感するという話があった。


確かに技術が発達すれば、原子力をごく簡便に取り扱える時代が来るかもしれない。そうなれば、原子力以前の時代は野蛮な時代だと思われることだろう。危険物である石油をごく手軽に扱っているわたしたちが、ようやっと火を扱うことのできた時代を原始的と見なすように。

今般の原発事故を受けて、理系の方々の中には、原子力はきちんと取り扱えば制御できるという立場から、原発廃止論議に反対する人もいる。科学的な観点というやつである。その延長線上には、小松の描く未来が待っていることだろう。

簡便にとはいかないが、厳正な取り扱いをすればある程度の原子力の制御は現在でも可能かもしれない。そのことをわたしは否定しない。しかし、そのような言明をする方々は、現実社会の中では科学的公正さがしばしばないがしろにされる、ということを忘れているように思える。

科学的立場に立つ方は、今般の事故が教訓となって、原発は安全に運転されるようになると信じておられるようだが、昨日の記事にも書いたような行政の対応についてはどうお考えなのだろうか。これもまた、是正されるからOKだ、あるいは「除染」には意味がないから問題ないと考えるのだろうか。

残念ながら、科学あるいは工学的知見は、現実社会において常に倫理的に利用されてきたわけではない。足尾鉱毒事件の後、同様の事件は跡を絶っただろうか。水俣の悲劇の後、阿賀野川流域で何が起こったか思い出してみるといい。

歴史は繰り返す、である。原発あるいはその関連分野だけが例外であるはずがない。そこらの認識が、技術的立場から原発を容認する方々の頭からはすっぽりと抜けているように思える。

原発の場合、万一のことが起こった際の影響は、全くもって甚大なものがある。上に述べた公害が小さな出来事だと言うつもりは全くないが、後代への影響という点から見ると、廃棄物の処理ひとつでも20万年かかる原発の安全性のハードルは、限りなく高いと言わなければならない。

現在の行政及び電力会社のありようを見る限り、そのハードルをクリアできるとはとても思えない。そこらを技術的観点から語る人たちはどう考えるのか、聞いてみたいところだ。

ちなみに、小松の作品で爆発事故に遭遇する子供たちは、もはや人間の姿をしていない。異形の者となっているのである。

次は来週水曜更新の予定です。

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