2013年1月8日火曜日

旧暦11/27 環境省の正念場

垂渓庵です。

ここ数日、手抜き除染という言葉がネット記事などに見受けられるようになった。官房長官は手抜きはあってはならない、とおっしゃっているが、起こるべくして起こったという気もする。

環境省は監視強化を打ち出しているが、手抜きの実態の通報を長らく無視していたという話もあり、どこまで本気だか分かったものではない。

かつて実質的な環境庁の初代長官だった大石武一は、すでに認可されていた尾瀬ヶ原の開発を、福島県知事らを長官室に半ば監禁するという強引な方法でストップさせた。許認可権限がなかったにも関わらず、というか、許認可権限がなかったので、やむなくそんな手段によったもののようだ。

大石の回想によれば、それは「脅迫」のようなものだったということだが、世論を背景に彼は押し切った。寄り合い所帯だった環境庁の役人たちも、大石をよく支えた。

翻って、今の環境省はどうか。彼らの役目は環境=国民の健康を守ることだ。手抜き除染の通報を黙殺するようでは、その職責を果たしているとは言えまい。

もちろん、「除染」そのものにどれだけの有効性があるのか、という問題もある。「除染」は「移染」に過ぎず、そもそも洗浄水やはぎ取った表土などの大量の放射性物質の保管場所がない、という話もある。となると垂れ流ししかないわけだ。

その実態を知っているが故の環境省の怠慢だということなのかもしれないが、それとこれとは話が別だ。もしも「除染」が有効でないというのならば、国民の健康を守るべく、どうすればよいのか、頭を絞りに絞ってもらわねば困る。当然関係諸方面にも強力に申し入れてもらわねばならない。「除染」ということばで誤魔化すな、と。

環境省にとっては、ここが正念場ではないか。かつて大石武一が長官だった頃の環境庁は、国民の負託にこたえていた。国民とともにあったのである。それができないのなら、環境「省」など不要だ、となろう。どこぞの小さな部局で十分だ。無駄は省けばいいのである。

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