2013年8月26日月曜日

旧暦7/20 自信──藤井高尚の伊勢物語新釈

垂渓庵です。

最近読書ネタが減っていると前回書いた。だからというわけではないが、久々に古典ネタだ。kindleは関係ない。

江戸時代に藤井高尚という国学者がいた。本居宣長の弟子で、名文家として知られている。伊勢物語や古今和歌集などの注釈を行い、「三のしるべ」という和歌や文章指南の書や、手紙文の書き方を記した「消息文例」という本も著したりしている。


さて、その藤井高尚、「伊勢物語新釈」や「古今和歌集新釈」などを見ると、自分の読解への自信の程がうかがえる記述がそこここに現れる。よほど読み込んだのだろう。

たとえば、第一段末尾の「むかし人はいちはやきみやびをなんしける」に対する注には、

「いちはやきみやび」とは、こざかしき風流といふ心なり。昨日今日初冠(うひかうぶり)したる若きをのこの事なれば、今の世の人ならば、よろづつつましくて、歌よみかくることもえせじを、むかし人は若くてもかく小賢しきみやびをしけりといふ意にて、はじめに「うひかうぶりして狩りに行きけり」といへるに照らし合はせて、見ん人の心得るやうに、たくみに面白く書けるものなるを、むかしより人の心づかざりしは、作り主のためいといと本意(ほい)なきことなり。
とある。第一段末尾の「いちはやきみやび」が、冒頭の「初冠して」のあたりと照応する記述であることを、完全に作者の代弁者という立場で指摘している。

東下りの一節、「その河のほとりに群れ居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなと侘びあへるに」の一節に対しては、

旅路のならひ、友だちも後先に離れて行くものなれど、河のほとりにては渡し船に同じく乗らんとて待ち合はせて一群れになるを、「群れ居て」と言へり。よく心をつけて書ける文なり。

と、「群れ居て」という表現にどのような意味が込められているかを指摘し、批評者として作者よりも一段高い立場から論評を加える。 

四十八段(現在の一般的な活字本では四十九段)の「初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな」という「いもうと」の歌に対しては、
(中略)と解かれたる、ともにひがごとなり。「思ひけるかな」はこの歌詠めるいもうとの思ふよしなるを、昔より男の方にしひて解かんとして、たれもたれもかく解きえざりしなり。この歌の意をただ言にて言はば、(中略)。これは高尚まだいと若かりしほどに思ひ得て、ものに書き付けて師に見せ参らせしかば、いと珍しき考なりと褒めおこせられき。
と、師である宣長を引き合いに出しつつ、自己の読解の深さを主張する。

いずれを見ても、彼の作品読解への自信のほどがうかがえるだろう。いちいち例は挙げないけれど、古今和歌集新釈にしても事情は同じだ。

ひたすら作品に沈潜し、表現の微に入り細をうがつ味読を行い続けた結果たどり着いた境地だと言っていいだろう。それは研究者としての読解というのとはまた違うものであるような気がする。もちろん、素人読者の漫然とした読みというのとも違う。作者になり代わるというか、作者の代弁者たらんとするというか、そういう使命感とでもいうべき意気込みあるいは気概が感じられるのである。

彼はどれほどの勉強を重ねたのだろう。研鑽の末に流麗な和文を自在に操るまでになったことを考えると、作者になり代わる資格があるように思える。その読解が100パーセント正しいかどうかはまた別の問題だが、それはそれとして、伝えるべき価値を自信を持って提示できるというのは、ある意味幸せではないかと思ってみたりするのである。

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