2013年8月30日金曜日

旧暦7/24 エントロピーと有島武郎

垂渓庵です。

有島武郎を読んでいる。集中的にというよりも、目についたものをぱらぱらと読む、という感じだ。彼の作品についての感想は、それはまたそれとしていつか書いてみたいが、今回は、エッセーの冒頭部分にまつわる話だ。

「運命と人」の冒頭は、次のようになっている。
 運命は現象を支配する、丁度物体が影を支配するやうに、現象によつて暗示される運命の目論見は「死」だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。
 我らの世界に於て物と物とは安定を得てゐない。而して安定を得るための道程にあつて物と物とは相剋している。我等がエネルギーと称するものはその結果として生じて来る。而してエネルギーが働いてゐる間我等の間には生命が厳存する。然しながら安定を求めて安定の方に進みつヽある現象が遂に最後の安定に達し得た時には、エネルギーは存在するとしても働かなくなる。それは丁度一陣の風によつて惹起された水の上の波が、互に相剋しつヽ結局鏡のやうな波のない水面を造り出すに至るのと同様である。そこには石のやうに黙した水の塊的が凝然として澱んでゐるばかりだ。再びそれを動かす力は何所からも働いては来ない。生気は全くその自ら絶たれてしまふ。
 我等の世界の現象も遂にはこヽに落付いてしまふだらう。そこには「生」は形をひそめてたヾ一つの「大死」があるばかりだらう。その時運命の目論見は始めて成就されるのだ。
こんなことを考えているから自殺してしまったんじゃないかと思わなくもないけれど、それはそれとして、これはエントロピーが最大になった状態の説明のように思われる。

有島がその状態を「死」と結びつけているのは、エントロピーが最大になった状態が宇宙の最終状態であり、「熱的死」と呼ばれるのと対応していると考えていいだろう。

熱力学の第二法則によると、孤立系のエントロピーは増大し続ける。宇宙が孤立系ならば、無限の時間が過ぎれば、宇宙はエネルギーが完全に均等な平衡状態となり、エネルギーの移動が一切なくなってしまう。つまり、どんな変化もなくなってしまうわけで、それを「熱的死」と呼ぶ。

有島は1878年生まれで、エントロピーや「熱的死」の概念は、彼の生まれる十年以上前には発表されているようなので、彼がそれを学ぶ機会は十分にあったと考えられる。ひょっとしたら、アメリカ留学中にでも学んだものか。

宇宙の最終状態と個人の死とを結びつけるのは少し安易すぎないかと思わなくもないが、彼の中には死への傾斜があったということなのだろう。そう考えると、彼のような知性の人が、いくら「死」ということばを媒介にしているとはいえ、個人の終焉と物理学的な仮定とを簡単に結びつけていることにも納得がいく。「運命と人」は、彼の死の五年ほど前に発表されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿