垂渓庵です。
わたしは電車で通勤している。普段は梅田で地下鉄御堂筋線に乗り換える。
二年ほど前だったか、よんどころない事情で遅刻せねばならなかったことがあった。よりによってちょうどその日、地下鉄御堂筋線の梅田駅でぼや騒ぎがあった。覚えておいでの方もいることだろう。
間の悪いこと、この上ない。回り道をせねばならず、とても閉口した。おまけに携帯の充電も忘れていたので、職場に連絡するのも一苦労だった。ホームの倉庫で誰やらが隠れて吸っていたタバコの火の不始末が原因だったらしい。いい加減にしてくれという感じだ。
おかげで他の線を利用し、さらに他社路線にも乗り継がねばならず、普段よりも大幅に時間がかかってしまった。
2014年3月31日月曜日
2014年3月30日日曜日
旧暦2/30 小休止と追悼
垂渓庵です。
この春は子供とずいぶん出歩いた。
今日は雨が降っている。これ幸いと小休止にする次第。
さて、昨年から今年にかけて、わたしの世代が慣れ親しんだ声の持ち主の方たちが何人も亡くなっている。
この春は子供とずいぶん出歩いた。
今日は雨が降っている。これ幸いと小休止にする次第。
さて、昨年から今年にかけて、わたしの世代が慣れ親しんだ声の持ち主の方たちが何人も亡くなっている。
2014年3月27日木曜日
旧暦2/27 理想気体とラング
垂渓庵です。
理想気体というものがある。いや、実在はしていないから、「ある」というのは適当ではないかも知れない。が、とにかく理想気体というものが、物理学や化学の世界では考えられている。
高校生の頃のおぼろげな記憶によれば、気体分子の体積や質量などをゼロと仮定したものを言うのではなかったか。仮にそのような存在を考えることで、気体の物理的振る舞いを法則化しようということなのではなかったかと思う。
質量や体積がゼロという仮想の存在故に、たとえば、絶対零度では体積がゼロになるという、常識的には考えにくい帰結も招くのだけれど、理想気体というモデルを導入することで、実際のさまざまな質量や体積を持った気体分子の振る舞いを、統一的に理解できるようにもなる。
このモデル化というものが、西洋科学の発想の源というか、基層にあると考えていいのではないかと思う。もちろん、神話や伝説なでも一種のモデル化と言えなくもないと思うけれど、科学との違いを考え出すと面倒なので割愛する。大森荘蔵あたりの議論を参考にしてもらえればよいのではなかろうか。
理想気体というものがある。いや、実在はしていないから、「ある」というのは適当ではないかも知れない。が、とにかく理想気体というものが、物理学や化学の世界では考えられている。
高校生の頃のおぼろげな記憶によれば、気体分子の体積や質量などをゼロと仮定したものを言うのではなかったか。仮にそのような存在を考えることで、気体の物理的振る舞いを法則化しようということなのではなかったかと思う。
質量や体積がゼロという仮想の存在故に、たとえば、絶対零度では体積がゼロになるという、常識的には考えにくい帰結も招くのだけれど、理想気体というモデルを導入することで、実際のさまざまな質量や体積を持った気体分子の振る舞いを、統一的に理解できるようにもなる。
このモデル化というものが、西洋科学の発想の源というか、基層にあると考えていいのではないかと思う。もちろん、神話や伝説なでも一種のモデル化と言えなくもないと思うけれど、科学との違いを考え出すと面倒なので割愛する。大森荘蔵あたりの議論を参考にしてもらえればよいのではなかろうか。
2014年3月24日月曜日
旧暦2/24 三国伝記とカタカナ
垂渓庵です。
月日の経つのは早い。というか、いったんブログの更新を滞らせてしまうと、どんどん更新間隔が開いてしまう。ずいずいのんのんと毎日が過ぎていく。
そんなこんなでもう春休みに入った。いやはや、である。
さて、最近、故あって古い説話集などを見ていた。一般的なものだけではなくて、あまり一般的でないようなものも見ていた。といっても、岩波新古典文学大系で手軽に見ることができるものだけれど。
月日の経つのは早い。というか、いったんブログの更新を滞らせてしまうと、どんどん更新間隔が開いてしまう。ずいずいのんのんと毎日が過ぎていく。
そんなこんなでもう春休みに入った。いやはや、である。
さて、最近、故あって古い説話集などを見ていた。一般的なものだけではなくて、あまり一般的でないようなものも見ていた。といっても、岩波新古典文学大系で手軽に見ることができるものだけれど。
2014年3月14日金曜日
旧暦2/14 右門の変身
垂渓庵です。
たまたま佐々木味津三の「右門捕物帖」が青空文庫に入っていたので、続けて読んでいる。それほど好んでいるのかと言われると、実はちょっと自信がなかったりする。惰性による所が大きいのではないかという気がしなくもなくなくなくない。あれ。
が、さすがに四十編近く読み進めてくると、それなりに愛着も湧いてくる。右門はもちろんだが、右門の手下の伝六などもまあお気に入りにと言っていいかもしれない。
ところで、 そうやって続けて読んできたことで気付いたことがある。
たまたま佐々木味津三の「右門捕物帖」が青空文庫に入っていたので、続けて読んでいる。それほど好んでいるのかと言われると、実はちょっと自信がなかったりする。惰性による所が大きいのではないかという気がしなくもなくなくなくない。あれ。
が、さすがに四十編近く読み進めてくると、それなりに愛着も湧いてくる。右門はもちろんだが、右門の手下の伝六などもまあお気に入りにと言っていいかもしれない。
ところで、 そうやって続けて読んできたことで気付いたことがある。
2014年3月11日火曜日
旧暦2/11 アンパンマンと共産主義
垂渓庵です。
子供が時々アンパンマンを見る。以前は頻繁に見ていたが、今はそれほどではない。たまに気が向いたら見るという感じだ。
で、先日、一緒に見ていてふと気付いた。かばおくんやねこみ、ちびぞうたち、あるいは、西部の人達などなどは、いつもジャムおじさんのパンをもらったり、鉄火のマキちゃんやナポリタンロールちゃん、どんぶりまんトリオなどに食べ物をもらっている。
彼らのなりわいはいったい何だ。かばおくんたちは子供だからまあいいとして、彼らのお父さんお母さんの仕事はいったい何だろう。そのほか、町のみなさんの仕事も気になるところだ。
一方にジャムおじさんたち、さまざまなものの供給をする人達がいて、一方に無為徒食、供給者に寄生をするがごとくに生きる人達がいる、ある意味悪夢のような世界がアンパンマンの世界なんだろうか。わたしの直感は違うと告げている。あの世界はあれだ、もっと牧歌的なもののような気がする。
では、どう考えればいいのだろう。
子供が時々アンパンマンを見る。以前は頻繁に見ていたが、今はそれほどではない。たまに気が向いたら見るという感じだ。
で、先日、一緒に見ていてふと気付いた。かばおくんやねこみ、ちびぞうたち、あるいは、西部の人達などなどは、いつもジャムおじさんのパンをもらったり、鉄火のマキちゃんやナポリタンロールちゃん、どんぶりまんトリオなどに食べ物をもらっている。
彼らのなりわいはいったい何だ。かばおくんたちは子供だからまあいいとして、彼らのお父さんお母さんの仕事はいったい何だろう。そのほか、町のみなさんの仕事も気になるところだ。
一方にジャムおじさんたち、さまざまなものの供給をする人達がいて、一方に無為徒食、供給者に寄生をするがごとくに生きる人達がいる、ある意味悪夢のような世界がアンパンマンの世界なんだろうか。わたしの直感は違うと告げている。あの世界はあれだ、もっと牧歌的なもののような気がする。
では、どう考えればいいのだろう。
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