垂渓庵です。
子供が時々アンパンマンを見る。以前は頻繁に見ていたが、今はそれほどではない。たまに気が向いたら見るという感じだ。
で、先日、一緒に見ていてふと気付いた。かばおくんやねこみ、ちびぞうたち、あるいは、西部の人達などなどは、いつもジャムおじさんのパンをもらったり、鉄火のマキちゃんやナポリタンロールちゃん、どんぶりまんトリオなどに食べ物をもらっている。
彼らのなりわいはいったい何だ。かばおくんたちは子供だからまあいいとして、彼らのお父さんお母さんの仕事はいったい何だろう。そのほか、町のみなさんの仕事も気になるところだ。
一方にジャムおじさんたち、さまざまなものの供給をする人達がいて、一方に無為徒食、供給者に寄生をするがごとくに生きる人達がいる、ある意味悪夢のような世界がアンパンマンの世界なんだろうか。わたしの直感は違うと告げている。あの世界はあれだ、もっと牧歌的なもののような気がする。
では、どう考えればいいのだろう。
かばおくんたちのお父さんお母さん──ま、平たく言えば大人だな──も仮にそれぞれになりわいを持っていると仮定しよう。それが何なのかは分からないが、人に食べ物を与える仕事ではなかろう、という想像はつく。普段スーパーマーケットがあの世界で描かれることはないし、流通産業が発達しているっぽくもない。となると、食に関わるところ以外の仕事を街の大人達はしているんじゃないかという想像が成り立つ。食に関わるところは、アンパンマンをはじめとする、あの世界で固有名を持つ多くの登場人物達が携わっているわけだ。
あの世界は一種の分業型の社会ということになるだろうか。ただし、その基盤に、現在の多くの国においてそうであるような貨幣経済が存在するか、となるとちょっと疑問だ。
かばおくんたちがアンパンマンを初めとする食系の登場人物達に食べ物の対価を支払っているところなど見たことはない。それに、貨幣マンだの、新札ちゃんだのという登場人物も見たことがない。アルミー伯爵やナポリタンロールちゃんだのとうような、どちらかというとマイナーな品物や食べ物関係の方達もいるのに、である。あの世界ではお金は流通していないのではないか、という想像が成り立つ。
ということは、当然街の大人達も仕事の対価はもらっていないだろう、ということだ。どうやって生活しているんだ、となりそうだ。ここで重要になるのがアンパンマンを初めとする食系の登場人物達だ。彼らは、自分の取り扱う食べ物を人から言われていやいや人に配り歩いている訳ではない。彼らは自分の与えるべきものを嬉々として配達する。食パンを嫌悪するしょくぱんまんや虹を否定するレインボー王子などいるだろうか。鉄火巻きに疑問を抱くこまきちゃん、ネギが嫌いな長ネギマン、そんなものが考えられるだろうか。答えは自信を持って否だ。彼らは自己の好むところに従って、自己の仕事を選び取っている。そして、その仕事に熱心に取り組んでいる。
街の大人達も同じと考えてはいけないだろうか。それぞれの人たちがそれぞれの向き不向きに応じて、自分の選び取った仕事に熱心に取り組んでいるのだ。対価を求めずに。
ということは、自分の選び取った仕事以外の用件がどうしても必要になった者は、それをなりわいとしている人にその用件をこなしてもらうことになるはずだ。かばおくんのお父さんが仮に大工さんだったとしたら、洋服を作るのは苦手だろう。洋服は、洋服を作るのが得意な人に作ってもらうことになる。それぞれの人は、自分の好みや能力に応じて労働し、必要に応じて他の人の労働の成果をいただいている、ということになるだろうか。
わたしたちはそのようにして人々が暮らす社会のモデルを一つ持っている。共産主義がそれである。現実のそれを奉じる国々が持つある種の醜悪な側面を思いだしてはいけない。あの、人類の夢と言っていい、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」という高次の状態を想像してほしい。まさしくアンパンマンの世界がそれではないか、とわたしは思うのである。
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