2014年8月24日日曜日

旧暦7/29 ゴーストライター

垂渓庵です。

ゴールドライタンではない。と書いて思ったのだが、全体的に社会がタバコ離れに動いていく中、やっぱりこれのリメイクはないのだろう。たぶん発想の元はライターだろうし。わたしの中では、トランスフォーマーなどと同じ位置づけなのだけれど、実写版の新作が公開されているトランスフォーマーとはずいぶん異なる。

というようなことは実はどうでもよく、ゴーストライターの話だった。ウイキペディアの同項目を見ると、え、この人がゴーストライターをやってたのか、という人がたくさんいる。考えてみれば、後には文名が高い人も、最初はかけ出しだったろうから、当然と言えば当然の話なのかも知れない。

野間宏の『文章入門』を読もうとして、ふとこれは野間自身が書いたものか、それとも代作なのかと気になってネットで調べてみると、上記のウイキペディアの項目に行き着いた次第。野間の名誉のために書いておくと、『文章入門』は代作ではないようだ。

そもそも、野間の本を代作かもと思ったのは、川端康成の『新文章読本』が代作だという話を以前読んだことがあったからだ。今回、ウイキペディアにもその旨の記述があった。なんと驚いたことに代作者は伊藤整らしい。すごい取り合わせだ。これは、作者と代作者の名前を併記する形で売ってみたらどうだろう。案外売れるかもしれない。

2014年8月21日木曜日

旧暦7/26 はげ山

垂渓庵です。

以前は六甲山をよく歩いていた。今は全然だけれど。

登山道の近辺には、いわゆる巨木はない。たぶん、登山道から外れても同じだろう。燃料とする木が切られるなどして、近代に入ってからも六甲山ははげ山だったらしいから、それも当然と言えば当然だ。

その後、生活スタイルが変化したことや植樹などもあって、今の山容になったということだ。

もともと六甲山は花崗岩質の山で、表土層なども乏しいのではなかったか。あの山の木を伐採すれば、簡単に表土層が流れ去って、ごつごつしたはげ山になるということだ。

そのごつごつしたはげ山が、ここ百年ほどでずいぶん姿を変えたことになる。

緑を残そうという運動は、長い目で見れば実に効果的なのではないかと思った次第だ。

2014年8月20日水曜日

旧暦7/25 夏休みの課題だけれど…

垂渓庵です。

いまは夏休みで時間に余裕がある。ということはこのまえ書いたのだったか。

余裕はあるが、本の部屋はなかなか整理する気にならない。暑いし。

というわけで、本の部屋がえらいことになりつつある。久々に大量処分といこうか。

まずは、これまで残してきた漢籍関係の処分だ。以前だいぶ片付けたけれど、太平御覧だの、白居易集箋校だの、全唐詩の典故関係の時点だの、かさばるものがまだ残っている。

さすがにその辺まで処分を進めれば、少しはすっきりするだろう。今のままじゃ、書庫じゃなくて倉庫だ。

しかし、紙の本は重い。移動させることを考えると、ついつい億劫になってしまう。

さてさて、この休み中に実行できるだろうか。

2014年8月18日月曜日

旧暦7/23 やじろべえ

垂渓庵です。

何やら記事のアップが順調だ。これからもこの調子でいきたいところだが、たぶん無理だろう。

このブログを料理にたとえればどうなるか。と考え込むまでもなく、たぶんごった煮だろう。これは多少こましな記事だろう、と内心得意でなくもない記事もある一方、これはいかがなものか、と思われるものもある。というか、そっちの方がはるかに多い。

ちょっと情けない気もするけれど、それはそれでわたしの一面を形作っていることも確かだ。いたずらに嘆いてもつまらない。

ま、気を落とすことなく、気長に更新を続けよう。つるかめつるかめ。

ところで、何やらきな臭い雰囲気の昨今、原爆記念日や終戦記念日を迎えての番組を見ながら、自分の立ち位置は、と考えてみて気付いたことがある。どうやらわたしは、世の中が右傾化すれば左の方に、左傾化すれば右の方に引かれる傾向があるらしい。今はどちらにひかれるか。考えるまでもなく答えははっきりしている。

というわけで、エルトゥールル号については、当面授業で触れないことだろう。ほんとうは読ませたいところだけれど。石牟礼道子さんや原田良純さんの文章は積極的に読ませよう。フチークにも触れるとしよう。所長の言うカナリヤだな。

というわけで、残念ながらソルジェニーツィンには、しばらく触れないようにします、所長。

2014年8月16日土曜日

旧暦7/21 「市民活動家」のうさんくささ

垂渓庵です。

まず誤解がないように一言。わたしは市民運動を否定する者ではない。むしろ、行政などの行き過ぎを是正するために大切なものだと思っている。とてもではないが為政者や官僚が優れているとは言えない例がそこここに落っこちている以上、それらを監視することは必要だし、そのための大きな力になりうるのが、市民の力だと思う。

が、為政者や官僚が優れているとは限らないということは、一般市民も同様である、ということでもある。むしろ、自分は正義だと信じ込んでいる分、たちが悪いと言うこともできる。

先月起きた佐世保での同級生殺害事件に関する次のようなニュースに気付いた。テレビ朝日のニュースを一部引用しよう。

 長崎県佐世保市の女子高生による同級生殺害事件を受け、市民団体などが「刑事裁判にかけることは避けるべき」などとする要望書を最高裁に提出しました。
 少年問題ネットワーク・毛利甚八さん:「重大少年事件を裁判員裁判にかけるのは避けて下さい。少年の立ち直りのために多様な処遇の道を用意して下さい」
 要望書を提出したのは、少年事件の厳罰化に警鐘を鳴らす団体などです。安易に刑事裁判にかけるのではなく、家庭裁判所での徹底した調査を求めています。 「被害者と司法を考える会」の片山徒有代表は「未成年の少年少女には刑事裁判はふさわしくない。刑罰だけでは語り尽くせない『立ち直り』というテーマがと ても大事だ」などと訴えました。

とある。立ち直りを考えるのも結構だけれど、そもそも、この加害者の女の子が何から立ち直るのかが不分明だ。どうして詳細を知る前から、立ち直るべき何かがこの女の子にあったことが分かるのか? もしそんな「挫折」なり、「鬱屈」なりがあったとして、それが分かるのは、審理が公開されてからのことだろう。予断でものを言うなと言いたい。

それに、だ。高校1年でこんなやつに殺された女の子はどうやって立ち直るのか? その家族の気持ちはどうやって立ち直るのか? この「市民」たちには、そういう視点が欠落している。何が何やら分からないうちに家族を失って、その相手が社会的制裁も受けない、そんな世の中は、わたしはごめんだ。

こんな犯罪を犯した者は、刑事裁判に付して審理を公開し、しかるべき刑事罰を受けさせることが必要だというのは、市民の当たり前の感覚ではないかと思うのだけれど、この「市民」の方々は違う。

被害者の家族の心情を忖度すれば、家裁での審判を、というのは余計なお世話だとしか思えない。他人が押しつけていいことではない。それを予断だと言うのならば、自分の家族がこんな不合理な殺され方をしたと想像してみたらいい。それは、予断ではない。健全な市民の感覚だ。

わたしが「市民」活動家に胡散臭さを感じるのは、こんな時だ。

2014年8月6日水曜日

旧暦7/11 定本パンセあるいは裏は真っ白

垂渓庵です。

以前に書いた話とかぶるが、前々回のお値段の考察にとりあげた松浪信三郎訳の『定本パンセ』は、見開き2ページの空白ページがとびとびに現れて、計8ページが真っ白だ。盛大な落丁、ではないな。乱丁? 違う気がする。なんと呼んでいいのかよく分からない。

分からないが、そんなことになる仕組みは、なんとなく想像がつく。

うちの職場の機関誌(?)は、外部の印刷屋さんに印刷をお願いしているが、16ページで1単位となっている。大きな一枚の紙に何ページ分かをまとめて両面印刷し、裁断、製本するという流れを考えると、そうなるのだとか。

これが通り相場だとすると、講談社文庫も同じ方式で造られているものと思われる。で、『定本パンセ』だけれど、空白ページが現れるのは、82-83、86-87、90-91、94-95の各ページだ。ノンブルも含めて何も印刷されてないけれど、位置から言うとそうなる。

さっきの16ページがひとまとまりというお約束を適用すると、81ページから96ページまでがひとまとまりだと推測される。空白ページは、両面印刷すべきそのひとまとまりの片面を印刷し忘れたために生まれたものと推測される。

『定本パンセ』は昭和46年の発刊で、まだ活字を組んで印刷していたものと思しい。今では、原稿も失われていることだろう。印刷されなかったページの紙型(しけい)もないかもしれない。

かなりの力作でありながら、不思議と講談社学術文庫に収められることがないのは、そこらあたりが原因なんじゃないかと思ってみたりもする。

河出書房から出ていた『世界の大思想』シリーズに松浪信三郎訳のパンセが入っているが、底本が違う。空白ページは、もはや完全には復元できないんじゃないだろうか。

2014年8月3日日曜日

旧暦7/8 犯罪ワーストワンの不思議

垂渓庵です。

大阪と東京の街頭犯罪発生件数を比較したグラフを見ていると、素朴な疑問が湧いてくる。

東京の発生件数が2014年にがくんと減っているのだ。大阪府警の隠蔽工作が功を奏して(?)ワーストワンを抜け出て三年目にあたる。

これは警視庁があわてた結果だろう。

で、あわてた結果どうしたのかが気になるのである。徹底的にパトロールや啓発活動などを強化したのか、大阪府と似たようなことをやっていたのか。いったいどちらだろう。

大阪に住んでいるからといって、大阪府警をかばうつもりは毛頭無い。が、府警だけが別格だとはとても思えないのだ。官僚組織なんてそんなものではないか。ゴキブリだって、1匹見つかればその家には他に何十匹もいるなんて言われるぐらいだし。

ところで、わたしの想像が外れていた場合、警視庁は本当に地道な活動で発生件数を減らしたことになる。大阪府警本部長は、ぜひ警視総監にほんとのところを教えてもらったらいい。で、地道な活動の結果によると判明した暁には、ぜひ警視庁に研修に行ってもらいたい。