垂渓庵です。
まず誤解がないように一言。わたしは市民運動を否定する者ではない。むしろ、行政などの行き過ぎを是正するために大切なものだと思っている。とてもではないが為政者や官僚が優れているとは言えない例がそこここに落っこちている以上、それらを監視することは必要だし、そのための大きな力になりうるのが、市民の力だと思う。
が、為政者や官僚が優れているとは限らないということは、一般市民も同様である、ということでもある。むしろ、自分は正義だと信じ込んでいる分、たちが悪いと言うこともできる。
先月起きた佐世保での同級生殺害事件に関する次のようなニュースに気付いた。テレビ朝日のニュースを一部引用しよう。
長崎県佐世保市の女子高生による同級生殺害事件を受け、市民団体などが「刑事裁判にかけることは避けるべき」などとする要望書を最高裁に提出しました。
少年問題ネットワーク・毛利甚八さん:「重大少年事件を裁判員裁判にかけるのは避けて下さい。少年の立ち直りのために多様な処遇の道を用意して下さい」
要望書を提出したのは、少年事件の厳罰化に警鐘を鳴らす団体などです。安易に刑事裁判にかけるのではなく、家庭裁判所での徹底した調査を求めています。
「被害者と司法を考える会」の片山徒有代表は「未成年の少年少女には刑事裁判はふさわしくない。刑罰だけでは語り尽くせない『立ち直り』というテーマがと
ても大事だ」などと訴えました。
とある。立ち直りを考えるのも結構だけれど、そもそも、この加害者の女の子が何から立ち直るのかが不分明だ。どうして詳細を知る前から、立ち直るべき何かがこの女の子にあったことが分かるのか? もしそんな「挫折」なり、「鬱屈」なりがあったとして、それが分かるのは、審理が公開されてからのことだろう。予断でものを言うなと言いたい。
それに、だ。高校1年でこんなやつに殺された女の子はどうやって立ち直るのか? その家族の気持ちはどうやって立ち直るのか? この「市民」たちには、そういう視点が欠落している。何が何やら分からないうちに家族を失って、その相手が社会的制裁も受けない、そんな世の中は、わたしはごめんだ。
こんな犯罪を犯した者は、刑事裁判に付して審理を公開し、しかるべき刑事罰を受けさせることが必要だというのは、市民の当たり前の感覚ではないかと思うのだけれど、この「市民」の方々は違う。
被害者の家族の心情を忖度すれば、家裁での審判を、というのは余計なお世話だとしか思えない。他人が押しつけていいことではない。それを予断だと言うのならば、自分の家族がこんな不合理な殺され方をしたと想像してみたらいい。それは、予断ではない。健全な市民の感覚だ。
わたしが「市民」活動家に胡散臭さを感じるのは、こんな時だ。
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