垂渓庵です。
以前に書いた話とかぶるが、前々回のお値段の考察にとりあげた松浪信三郎訳の『定本パンセ』は、見開き2ページの空白ページがとびとびに現れて、計8ページが真っ白だ。盛大な落丁、ではないな。乱丁? 違う気がする。なんと呼んでいいのかよく分からない。
分からないが、そんなことになる仕組みは、なんとなく想像がつく。
うちの職場の機関誌(?)は、外部の印刷屋さんに印刷をお願いしているが、16ページで1単位となっている。大きな一枚の紙に何ページ分かをまとめて両面印刷し、裁断、製本するという流れを考えると、そうなるのだとか。
これが通り相場だとすると、講談社文庫も同じ方式で造られているものと思われる。で、『定本パンセ』だけれど、空白ページが現れるのは、82-83、86-87、90-91、94-95の各ページだ。ノンブルも含めて何も印刷されてないけれど、位置から言うとそうなる。
さっきの16ページがひとまとまりというお約束を適用すると、81ページから96ページまでがひとまとまりだと推測される。空白ページは、両面印刷すべきそのひとまとまりの片面を印刷し忘れたために生まれたものと推測される。
『定本パンセ』は昭和46年の発刊で、まだ活字を組んで印刷していたものと思しい。今では、原稿も失われていることだろう。印刷されなかったページの紙型(しけい)もないかもしれない。
かなりの力作でありながら、不思議と講談社学術文庫に収められることがないのは、そこらあたりが原因なんじゃないかと思ってみたりもする。
河出書房から出ていた『世界の大思想』シリーズに松浪信三郎訳のパンセが入っているが、底本が違う。空白ページは、もはや完全には復元できないんじゃないだろうか。
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