垂渓庵です。
さて、『ボルヘスとわたし』だ。と書いても、おおかたの人は何のことやら分からないことだろう。話は二ヶ月以上前にさかのぼる。9月中旬にこんな記事を書いていたのだ。今回はその続きということになる。それにしても、どれだけ間があいているのか。いい加減にも程がある。スミマセヌ。スミマセヌ。
前回も書いたように、『ボルヘスとわたし』は、自選短編集だ。そこらの自選短編集と違うのは、各作品にボルヘス自身が注をつけていることと、かなり長い自伝的なエッセーみたいなのがついているところだ。
この注は簡単に言うと自作自解だ。作品の成立の背景や執筆意図などを書いてある。それはそれで、作品を読む手がかりになるのだけれど、どうもそれだけではすまない何かがある気がする。うまく表現できないのだけれど、作品と注を合わせて一セットで、それがまた作品になっていると言えばいいだろうか。時に、ほんとうですか、ボルヘスさんと言いたくなる趣があるのだ。
詳しくは実物に当たって下さいとしか言えないが、そう言えばボルヘスは、もっともらしい評論やエッセイ仕立てで、そのくせ実はばりばり幻想的な作品をたくさん書いていて、その中で注を多用する作家だった。もちろん、本物の出典などを示す注もあることだろう。しかし、それはあなたが作った架空の書物ですよね、という出典を示したり、実在の書物や人物について触れる場合でも、けっこう強引な引証を行ったりする。
ボルヘスの代表的な作品集である『伝奇集』の劈頭を飾る、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」から一つ例を挙げてみよう。そこでは、注の一つにバートランド・ラッセルの「世界は五分前に始まったかもしれない」という、懐疑主義的立場からの思考実験的な仮説についての記述があるのだけれど、それが牽強付会的な方法で、トレーンという架空の世界の成立と結びつけられている。ラッセルは確実にそんなつもりはなかっただろうに。
そんなボルヘスのことだから、『ボルヘスとわたし』の自注も、ほんまかいなという目で見ないといけないと思うのだ。いや、そんな目で見ないでボルヘスの幻術にだまされた方がいいのか。
いずれにしても、ボルヘスの自作自解は、これまた二月以上前に取り上げた会津八一の『鹿鳴集』自注とは、だいぶ趣の違うものであるということだけは確かだ。文学的試みってのは、本当に多様なのだとつくづく思う。こんな投げやりなまとめでいいのだろうか。
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