垂渓庵です。
わたしは音楽を聴くのが嫌いではない。とくによく聴くのがジャズだ。というよりも、その他のジャンルはほとんど聴かない。いや、知らない、と言った方がいい。ロックもクラシックもJ-POPもK-POPも、現在ただいま消えてなくなったとしても困らない。知らないし。
ジャズ以外に聴くものといったら、アフリカン、フォルクローレ、マザーグースを少々といったところだ。などと書いていると、きわめてお寒い音楽生活を送っているような気がしてきた。いかんいかん。
ところで、そんな風に、お寒くも偏りのある音楽生活をしているわたしの音楽の聴き方は、これまた偏っているのではないかと思う。今回はその辺を書いてみたいと思うが、それには、少し寄り道をしないといけない。
わたしの大学時代の英語の先生が翻訳家として令名の高い若島正さんだというのは、どこかに書いたと思う。その若島さん──学生時代、わたしたちは若島先生のことをそう読んでいた──の大好きなウラジーミル・ナボコフは文学講義録をいくつか残している。
翻訳されているのは、たぶん『ロシア文学講義』『ヨーロッパ文学講義』『ナボコフのドン・キホーテ講義』の三つだ。どれも品切れ状態で、Amazonではえらいこと高い値段がついてしまっている。幸いわたしは三つとも定価で買ってあって、拳々服膺している。もちろん軽く自慢しているわけだけれど、今はそれが主題ではない。
『ヨーロッパ文学講義』の中に、「良き読者と良き作家」という文章が収められている。ナボコフはそこで、良き読者は、細部に注意して細密に研究すると書いている。また、作中の主人公との一体感などというものに身を任せたりしないとも書いてある。
普通わたしたちは、多かれ少なかれ作中人物との一体化を経験しそうなものだし、それを経験したくて小説を読む面もあると思うのだけれど、ナボコフはそういう態度を断固として排する。作家の魔術によって新たに作られた世界を味わい尽くせと言うのだ。
本を読むという行為を考えた場合、ナボコフの言うことは何となく理解できる。もちろん、わたし自身が常にそういう読み方をしている訳ではない。が、作品の世界に深く分け入って、どうしてこんな表現が出てくるのか、全体としての構成の中に置くとこの部分はどういう意味を持つのか、などなどということを考えながら小説を読むこともないではない。文字通り、「再読」しながら、「背筋をぞくぞく」させて。どちらも、ナボコフによれば、良い読者の読み方である。
しかし、音楽となると、わたしはそういう聴き方を多分していない。その辺のところを次回に書いてみたい。
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