ああ、すっかりごぶさたになってしまった。諸々の雑務のため、思うように時間がとれなかった。遅れてすみません。わたしはだれに謝っているのか。
今回は柔道の嘉納治五郎の聞き書き最終回だ。引用はこれまでと同じく岩波文庫の『戊辰物語』から。
間もなく福田先生は亡くなられたので、次は起倒流の宗家磯正智氏に、次は飯久保恒年氏についたが、これが投げが専門で今の柔道というのは真揚流と起倒流とを折衷したもので、わしが初めて柔道と名称(なづ)けて、この一派を開いたのさ。そんなわけでわしは誰からも免許というものはもらっていないが、真揚起倒二流の奥義を究めてその伝書はことごとく譲りうけている。柔道に初段とか二段とか段を設けたのも、わしの創案で、この頃は剣術でも弓術でも道の字を用いて段をつけるのはわしの専売特許を侵すものだよ。しかし柔道の本当に盛んになったのは日露戦争後さ。考えると久しいもんだねえ。投げ専門の柔術と締め専門の柔術を総合したのが今の柔道だということだ。柔道は総合格闘技だったのか。ところで、寝技はどういうことになるのだろう。寝技専門の流派があったものか。師範はさしずめ寝業師か…。
あるいは寝技は締め専門の方に入るのだろうか。また、もしも突きや蹴り専門の柔道があったとして、治五郎がそれをも取り入れたとしたなら、柔道はPRIDEみたいなものになっていたのだろうか。いろいろと疑問は膨らむが、江戸時代の柔術界の事情にはとんと疎いので、よく分からない。
また、奥義を究めて伝書を譲り受けているのなら、免許をもらっているようなものじゃないかという気もするけれど、どうなんだろう。それとも柔道の衰退を憂えた諸師範たちが、嘉納に次代の可能性を見て、伝書などを託したということなのだろうか。このあたり、小説にでもなりそうな気もする。
最後の記述は、柔道が近代化の道筋をつけて、剣道や弓道がその後を追ったということのようだ。柔道の創始者自身が言うのだから間違いないような気もするが、実際のところどうなんだろう。
この伝でいくと、合気道などはもともと合気術とでも言っていたものか、と思ってウィキペディアなどを見てみると、どうやら合気道は、柔術や剣術などを研究した植芝盛平が大正から昭和にかけて総合したものらしい。合気「道」という呼称は、やはり治五郎の柔道の影響を受けていると見てよさそうだ。意外にも合気道の歴史は新しい。
こう見てくると、嘉納治五郎の創始した近代柔道は、諸武道に影響を与えたものだと言ってよさそうだ。彼は武術の近代化への道筋をつけた人だと言えるだろう。それにしても、治五郎の影響があったにせよ、どうして武術は近代にいたって武道となったのだろう。そこらあたりに日本における近代化の特質が現れているように思える。キーワードは自己修養、人格完成、求道精神だ。
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