垂渓庵です。
今年に入って以下のような本をぼつぼつと買ったり読んだりしている。これらには、ある共通点がある。おわかりだろうか。
宇宙樹・神話・歴史記述
イワーノフ/トポーロフ著
岩波現代選書
あずさ弓
ブラッカー著
岩波現代選書
文化=記号のブラックホール
丸山系三郎著
大修館書店
シンボル形式の哲学
カッシーラー
岩波文庫
探究
柄谷行人
講談社学術文庫
反=日本語論
蓮見重彦
ちくま文庫
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
ウェーバー
岩波文庫
岩波の本が多いですね、というのが答えではもちろんない。また、人文科学系に偏っていますねというのも、正解に近くないわけではないが、違う。
上記の本に共通するのは、大学時代の友人や先輩たちが話題にし、読んでいた本であったということだ。時代がそうさせたのか、あるいは文学部という浮世離れした環境がそうさせたのか、わたしの周囲には浮世離れした者が多かった。彼らは思想や哲学というものに関心を抱き、それ関係の本を読んでいた。昨今の実学一直線の大学風景とはだいぶ事情が異なる感じだ。
当然浮世離れしていたわたしもそれらに興味がなくはなかったが、敬して遠ざけているところがあった。難しそうだという印象があったのもあるが、何となくみんなが読んでいるのが嫌だったのだ。今もみんなが読んでるものなんか読んでやるか、という気持ちがなくはない。学生時代ほど強くはないけれど。だから、村上春樹もビタ一冊読んじゃいない。
もちろん、これは気分の問題であって、本当にみんなが読んでいるものを一切読まないわけではない。小学校から高校にかけては、北杜夫、星新一などなどにはまったし、藤沢周平や池波正太郎、隆慶一郎などもたくさん読んだ。内田百閒も大好きだ。今は畠中恵に軽くはまったりしている。
かなり恣意的な感じだけれど、そこらの心理を自分なりに分析してみると、世間的に受け容れられているかどうか知らないまま、あるいはあまり意識しないまま、何かの拍子に手にとってみて面白かったなら、世の中で受け容れられているものでも特に気にならない。ブームというか流行というか、それを読んでないと時流に乗り遅れます的な感じで広く取りざたされていて、そのことを自分も十二分に認識しているものは、死んでも読みたくない、となるようだ。
ブームが落ち着いたと判断したら読んでもOKだ。吉本ばなな、林真理子、山田詠美なんかはそんな風にして読んだ。ええと、まだブームが続いていたらごめんなさい。ブームかどうかというのは、あくまでもわたしの主観的な判断です。
最初に挙げた人文科学系の本を読むようになったのは、現代文を教えていると、そこら辺の知識が必要だよなと痛感したことによる。不本意なんだけれど、仕方なしに読み出したというところだ。もっとも、今の職場にも友人にも読んでいる人はいないから読んでもOKになったのだ、という理屈を密かに用意している──これを理論武装という。誰に対する理論武装だ──が、もちろんそんなのは屁理屈だ。
で、読み出すと面白いものもけっこうある。もっと早く読んでおけばよかったと思わなくもなくなくなくない。あれ。けれど、ここまできて自分の性癖を否定しようとは思わない。読みたくないものはすなわち読みたくない、と百閒式に考えていくことにしよう。
当然わたしが村上春樹を読むのは、彼が過去の作家になった時、ということになる。昨今の彼の人気を考えると、わたしは一生読むことができないのではないか、と思ってみたりもする。もちろん否やはない。望むところだ。
けれど。けれど、である。彼が人気作家であるということを忘れさせてくれる薬があれば、買ってもいいかもしれない。ああ、読んでみたい。
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