2015年8月31日月曜日

旧暦7/18 夏休み終了に思うこと

垂渓庵です。

いよいよ本格的に夏休みが終わる。ま、すでに短縮授業が始まっているのだけれど、いちおう明日始業式があり、実力テストが終わったら、平常どおりの授業が始まる。

最近は公立の小中学校でも夏休みが短くなってきている。授業時間の確保、授業の質の向上など、それなりの理由はあるのだろう。

2015年8月30日日曜日

旧暦7/17 女子高生とエヴァ

垂渓庵です。

20年前、テレビ版エヴァンゲリオンがはじめて放映された。阪神淡路大震災のあった年だ。

震災後、わたしはテレビを見ていなかった。うちのテレビに電気が通じたのは、以下に書く出来事のあった時と、2001年に9.11テロが起こった時のことである。実に長い間沈黙し続けたことになる。テロの時はラジオでニュースは聞いていたのだが、さすがにこの目で状況を確認したくなったのだ。

という思い出話はさておき、結局わたしはエヴァンゲリオンの本放送を全く見なかったし、それがけっこう支持者を集めているらしいこともあまり認識していなかった。

2015年8月28日金曜日

旧暦7/15 またもや勉強&ヒロタさん追悼

垂渓庵です。

またもや自分で教材を作るべく四苦八苦している。よっぽど暇なんだな。おれ。

というわけで、今回も「、仏教がらみの説話をせっせとワープロ入力→簡単な注を作成」という作業にいそしんでいる。

2015年8月18日火曜日

旧暦7/5 少女漫画と少年漫画

垂渓庵です。

前にも書いたかも知れないが、最近少女漫画を読んでいる。電子書籍というのはとても便利な媒体で、コミック類の試し読みも可能だ。数ページというのではない。まるまる一冊分ということもざらにある。もちろん、発刊されているタイトル全てではないだろうけれど、あたりをつけるのに便利だ。

期間限定で無料になっているものも多いが、時には一巻目が無料になっていることもある。場合によっては、三巻目ぐらいまで無料のことも。

そんなこんなで、この三月あたりから、延べでコミック500冊ぐらいは目を通しただろうか。そんなに暇なのか、おれ。

ところで、この文章の第二段落の一文目と二文目が実はつながっていない。男のわたしが少女漫画を読むことと、電子書籍が便利だということの間には、論理的な必然性がないからだ。少年漫画だっていいじゃないか、青年コミックはどうなのだ、いっそレディースコミックはどうか、という疑問が出て来るでしょう?

少年漫画や青年コミックが悪いわけではない。6月のエントリーにもkindleで読んだお気に入りの青年コミックをあげてある。

が、登場人物の心理を微細に描く点においては、少女漫画が一番なのではないかと思う。相対的にですよ。何でもかんでも少女漫画がよいというわけではない。

作品の中で中心になる人物を考えてみよう。少女漫画の場合、女の子を中心とする話がもちろん多いわけだけれど、男の子が中心となるものもけっこうある。たとえば『俺物語』あるいは『アポロンの坂』。どちらにしても、少女漫画の一番大きな主題は恋愛ということになるだろう。時には百合やBLものなどの特殊な恋愛も含まれる。

一方の少年漫画の場合はどうかというと、やはり男の子が主人公となることが圧倒的に多いんじゃないかと思う。もちろん女の子が主人公になることもある。やや青年・成人向けにシフトするかもしれないが、山本貴嗣さんの作品などの場合がそうだろう。が、概して言うと少年漫画は、男の子が中心の友情、恋愛、成長物語という面が強いように思う。

さて、人間の微妙な心理を深いところまで描くことが多いのはどちらの場合かを考えてみよう。日本の優れた古典の一つが『源氏物語』であることに異論はないだろう。そこにはさまざまな恋愛のありようが描かれている。そして、紫式部はそこで女性の幸せとは何かについて繰り返し繰り返し問いかけている。ということは、当時の男についても光源氏やその他の男を通して考察していると言っていいだろう。人間の複雑なありようがとても掘り下げられているのだ。

恋愛というものは、人に喜びとともに苦悩や悲しみを感じさせる面があり、複雑性を持った自己や他者について突き詰めて考える契機となりうる体験であると言える。その恋愛をもっぱらとりあげる少女漫画が、複雑な人間存在について深いレベルで表現することを達成する可能性は、恋愛が作品の一要素にとどまるところの多い少年漫画よりも高いのではないか。

少なくとも、作品の中心として焦点を当てられる人物が男でも女でも自在に設定できる少女漫画の方が、より自由で柔軟な形で人間をとらえていると言えるのではないかと思う。もちろん、少女漫画特有のステレオタイプ的なとらえ方にとどまっている場合も多いけれど。


2015年8月15日土曜日

旧暦7/2 もうすぐ七夕

垂渓庵です。

最近早朝に歩いている。

11月に軽い山行の予定があり、そのためのリハビリをかねて健康の増進に役立てようというものである。

コースは特に決めておらず。歩き出してから考えている。できるだけアップダウンがあるようにしている。

日が出てからでは暑いので、五時台に歩き出し、六時台には帰宅するようにしている。

さすがにその時間だと、それなりに涼しい。

いつまで続けられるか分からないけれど、というか仕事が始まると無理っぽいけれど、何とか続けようと思っている。

息子が一緒に歩きたいと言っているが、起床時間が災いしてまだ一緒に歩けてはいない。さて、休み中に一度ぐらいはいっしょに歩けるかな。

あ、表題と全然関係のない記事になってしまった。しようがないので一句。

 八月の七夕早朝涼ありか

2015年8月10日月曜日

旧暦6/26 ラノベと星新一 3

垂渓庵です。

暑い。けど、明け方は少し風が吹き、気持ちいい。太陽が顔を覗かせると、すぐに暑くなるけれど。

ラノベにはミステリー風の作品もこれまたたくさんある。殺人事件だけではなく、日常の謎を追いかけるものも含めれば、ランダムにラノベを手に取れば、何回かに一回は何らかの謎を解くものを手にすることになるだろう。

それらは、主人公が高校生~20代前半で、なおかつユーモアや恋愛で味付けされたものも多い。想定される読者にとっては、やはり身近なものとなっている。と思われる。

さて、一方、1960、70年代はどうか。アガサ・クリスティやエラリー・クイーン、松本清張、横溝正史などなど、読まれたであろうミステリ作家はいくらも思い浮かべられる。どれも面白いものである。が、想定される読者はやはり一般人だろう。

当時の中高生はミステリを読むにあたっても、多かれ少なかれ背伸びをしていたんじゃないかと考えることができる。

以上のように考えてみると、現代の中高生は、無理せず身の丈に合った読書をするという意味では恵まれていると言えそうだ。が、その状況を喜んでばかりもいられないような気がする。成長期に背伸びをしたからといって、物理的に背は伸びない。けれども、精神的な背伸びは、心の成長に何がしかの影響を与えずにはおかないように思う。

また、手に入る喜びの大きさも異なるんじゃないか。もちろん、ラノベによっても、思いもかけなかった世界の姿に気付くこともできる。痛切な感情を追体験することも可能だ。その結果、結構な満足感を抱けたりもする。が、それを何らかのハードルを乗り越えた末に手に入れるという要素は、あまりない。やっぱり苦労した方が達成感や喜びは大きいと思うのである。

精神的な成長、手に入る喜びの大きさ、そこらあたりで、今の中高生とかつての中高生の読書のありようが異なってきているように思うわけである。

2015年8月9日日曜日

旧暦6/25 ラノベと星新一 2

垂渓庵です。

まだ暑い。そのせいか、ここ二、三日夕立がある。雷はありがたくないけれど、雨がさっと上がった後は少し涼しい。夕立様々である。

さて、ラノベと星新一や筒井康隆さんの話を続けよう。どちらも中高生に広く指示されている(いた)ものだ。

が、ちょっとした違いがあるように思える。ラノベはどちらかというと中高生に寄り添って書かれている。中高生が主人公の作品もものすごいく多いし。

一方の星新一や筒井康隆さんの諸作品はどうか。いわゆるジュブナイルに属するものは別として、特に中高生に寄り添っているとは思えないものが大半だ。小松左京その他の1960年代70年代にきら星の如くに並んだSF諸家の作品も同様だ。

コバルト文庫の作品は別として、当時の中高生は、大人を意識して書かれた作品を好んで読んでいたことになる。市場が細分化されていなかったということもできるだろうけれど、やはり、嗜好の違いが窺えそうだ。

一言で言うならば、背伸びをしているかしていないかということになるのではないか。もちろん、星新一の作品などは、とてもリーダビリティの高いもので、背伸びをする必要もなく読めたのではないかと思う。が、その他のSF作家の方々の作品は、必ずしもそうではない。

筒井康隆さんの実験的な作品や、小松左京のスケールの大きい長編、眉村さんの中間管理職の悲哀を感じさせるような作品群、どれも中高生には手に余るところがある。が、それらを当時の中高生は背伸びして読んだのではなかったか。

このあたりの事情は、ミステリ系の諸作品についても同じことが言えるように思う。

が、長くなるのでそのあたりはまた次回ということにしよう。

2015年8月6日木曜日

旧暦6/22 ラノベと星新一 1

垂渓庵です。

暑い。とんでもなく暑い。わたしはすでに夏休みに入っているけれど、うちの同僚の中には、まだ補習をしてますって人もいる。もちろん教室に冷房は入っているが、この暑さである。いいかげん辟易しているのではないだろうか。わたしなら脱走するかもしれない。そして他の同僚と追いかけっこを演じるのである。おっかなびっくり追いかけてくるのはエヌ氏。BGMはサンバ。

などとバカな空想にふけってしまうほど暑い。もちろん、世の中には、この暑さの中営業で走り回ったり、肉体労働で汗を流す人もいるわけで、クーラーの効いた中で授業するぐらいがなんぼのもんや、と思わなくもない。が、やっぱり暑いのはやだ。内田百閒ばりに言えば、いやなものはいやだ、なのである。

さて、そんな中、生徒に借りたラノベを読んでみる。早朝の読書の時間に生徒が持ってきて読んでいる本を見ていると、ほんとにラノベが多い。わたしが学生の頃に読書の時間があったら、みんなどんな本を読んでいただろう。わたし自身は北杜夫や内田百閒を読んだに違いない。でもみんなが読んだとは思えない。多いのはやっぱり星新一や筒井康隆あたりということになるんじゃないか。SFだな。

ラノベにもSF的要素を含む作品はたくさんある。が、星新一、筒井康隆などなどの作品とは少し違うところもあるように思う。というようなことを近いうちに考えてみたい。暑さに負けなければ。

2015年8月4日火曜日

旧暦6/20 夏休みを考える

垂渓庵です。

先日ようやっと夏休みに入った。補習やクラブなどでずるずると出校し続けていたのである。

夏休みなんだからしっかり休みましょうと思うのだが、時間があるからさまざまなイベントが気軽につっこまれる。そうしたい気持ちは分からないではないけれど、使えそうな素材文を新規に探したり、少しは教材研究をすることもある身としては、実は迷惑であったりもする。いや、それ以上に、夏の間に生徒にしっかり自学自習の癖をつけさせないといけないんじゃありませんかい、と強く思う。どこまでも学校におんぶに抱っこでは、いざ入試を前にして、やたらに塾予備校に頼り切るってことになってしまう。

もちろん、手のかけなさ過ぎもよくない。かなり前に卒業させた学年のことを思い出してみると、国語と英語は普段の補習もしたけれど、休みはしっかり自分で勉強するように指導していた。一方数学は、普段補習もしないし、特に勉強に取り組む姿勢についてこれといった指導もしていなかった。さんざん横からせっついても頑として動かなかった彼の意図は謎である。そんなことをやってできてもしようがない的なことを言っていたけれど、何のご託だという感じだ。

案の定、高三になって国語や英語で塾予備校に行く者はほとんどいなかった。そりゃそうだろう。そこまでしっかり力をつけてきたのだから、その延長でがんばりゃいいだけだ。一方の数学は、上位クラスでも塾予備校に行く者の嵐である。遅まきながら補習をした彼は、成績が上がってきたのを自慢していたが、そりゃ塾予備校で力をつけてもらったのだ。もちろん、こちらも大人なので、本人に直接指摘してあげた。今は別の学年で補習をやっているみたいだ。

話が逸れた。夏のまとまった休みは貴重だ。生徒にとっても。教員にとっても。どうせだらだらしているだけだ、色々やらせておけと発想する御仁は、自身が無為に夏休みを過ごしてきた、と告白しているも同様だ。

もちろん、だらだら休みが悪いわけではない。むしろ必要な面もある。わたしの場合、まとめて本を読むいい機会でもあり、だらだらできる夏休みは本当にありがたかった。

わたしの勤務校はいちおう進学校なので、勉強させないといけない。が、それは自主的なものである必要があり、学校での拘束時間を長くすればいいというものではない。最低限やるべきことをやって、その上で自分で好きなように時間を使うように生徒を動機づけるのが、学校的にはいちばん望ましいことではないかと思うのだけれど、今や我が勤務先はおろか、世の中全体が逆の方向に向かって突っ走っている気がする。この国はどこへ行こうとしているのだろう。