2021年10月27日水曜日

旧暦9/22 何のため

垂渓庵です。

以前、とある依頼を受けて書いていたのとは違い、このブログは書くのも自由だし書かないのも自由だ。事実、この何年かはほとんど休止状態だった。それがここ一週間ほどほぼ毎日更新している。

ここらあたりの心の機微はどのようなものなのかと思う。単に時間があるからと言うので説明できない何かがあるような気もする。それについて思い出すのは先年退職された職場の先輩のK原さんのことだ。K原さんは大学、高校のころから川柳をやっておられる。しかし、わたしがこの職場に奉職したころはそんなことを全然知らなかった。一時期活動を休止されていたのだ。

休止の期間は、十数年に及ぶ。その間にK原さんのお子さんは成長し、独り立ちされている。どうもK原さんは子育てに手を取られる期間、川柳の活動を休止されていたっぽいのだ。自覚してのことかどうかはわからない。その間さんざん飲み歩いていた──それは私が証人だ。というか、一緒に飲み歩いていた張本人だ──から、時間がなかったわけではないのだろうが、川柳という一種の創作活動を子育ての合間に行うのは、難しかったのではないかと思う。 

このブログがほぼ休眠状態だったのもそんな関係があるようにも思う。吹けば飛ぶようなブログとはいえ、継続して書くにはある種浮世離れした時間が多少は必要となる。その時間というか余裕というか、そんなものをとれないままになっていた、というのがこのブログの休止の理由なのではないかと思ってみたりする。ま、いいわけだけど。

2021年10月26日火曜日

旧暦9/21 雨が降っている

垂渓庵です。

昨日は一日冷たい雨が降っていた。ところで雨粒はどんな形をしているのだろう。答えは肉まんに近い形らしい。ネットというのは便利なもので、ちょっと検索するだけですぐに答えが出てくる。 

ところで雨はイラストでどんな風に表現されているのだろうか。これも答えを確認するのは簡単で、「雨 イラスト」とでも入力して検索すればいい。ただ、こちらの答えはちょっと複雑で、水滴様のもの、線状のもの、点線状のもの、水滴が線状に連なったものなど、いくつかのタイプに分けることができる。が、上に書いた実際の雨粒の形が基本肉まん型らしいのに比して、ちょっと変わっているということができる。

古典では激しい雨のことを「車軸の雨」と表現することがある。車軸のように太く長い雨が降っていて、雨脚が強いということを言う言葉らしい。

雨粒は実は肉まん型だと言われても、感覚的には線状のイラストあるいは「車軸の雨」という表現の方が感覚的にぴったりくる場合があるように思う。激しい雨については、線状にというか棒状にというか、そんな風にある程度の長さを持ったものとして降るというイメージを抜き去りがたい。少なくとも私には。

これは降り来る雨粒を雨粒として捉えきれない我々の分解能の限界によるのかもしれないが、 そのように、我々が現実をそのまま切り取っていると思い込んでいる「事実」が、実は現実を正しく反映していないことがいくつもあるのだろうと思う。

ということを昨日の雨のつれづれに考えた。 暇人かおれは。

2021年10月25日月曜日

旧暦9/20 四季? 二季?

おとついは少しゆがんだ丸になった月がぽっかりと空に浮かんでいた。当然昨日も日中よく晴れていて、全然天気が崩れそうなようすもなかった。それなのに気づけば朝から雨模様だ。もう冷たい雨だ。傘も差さず雨に打たれたままだときっと風をひくことだろう。10月初旬は汗ばむような陽気だった。それが一挙に冷たい雨。感覚としては夏から秋を飛び越していきなり冬に突入する感じだ。

もうこの国に秋はなくなったのだろうか、これが地球温暖化の影響か、と思わなくもないが、考えてみると、旧暦で秋は一応3ヶ月あることになっているが、もともと秋が3ヶ月もあったようには思えない。秋と呼ぶのにふさわしいのは、本来もっと短い期間だったのではないか。

日本は実際は夏と冬の「二季の国」だと言ったのは誰だったか。感覚的にはその方がぴったりだったのかも知れない。地球温暖化の影響があるとしたら、その傾向がますますはっきりしてきたことにあるという気がする。昔の人のえらいところは、夏と冬のあわいに幻のように存在する秋──そしてたぶん春もだろう──を切り取ってそれを拡大鏡で引き延ばして一つの季節として特立したところにあると言えるのだと思う。

2021年10月22日金曜日

旧暦9/17 謡曲百番

垂渓庵です。

大正から昭和初年ごろにかけて刊行されていた「日本古典全集」という古典の古いシリーズがある。その一つが「謡曲百番」だ。版によって異なるけれど、4冊ないしは2冊にまとめられている。 

今どきの人の中で謡曲に親しむ人はそんなにいないんじゃないかと思うけれど、古典文学の全集などには必ず謡曲が収められている。ただでさえ我々に縁遠くなっている日本の古典の中でもさらにマイナーな謡曲である。その文学史的意義が我々にも分かるように微に入り細を穿つ注や口語訳が付けられるのが常だ。しかし、である。「日本古典全集」はそんなことはしない。擬光悦本とも言われる古活字の版本をそのまんま縮小して収めているのだ。昭和初年という刊行時期のせいもあるのだろうが、硬派というか何というか、男前なことだと思う。

日本古典全集には他にも「本草和名」や「教訓抄」など、もとの本がまんま収められている。あの頃の人は全員じゃないにしても、これ、読めたんだろうなあ。

2021年10月21日木曜日

旧暦9/16 ふたたび記憶

 垂渓庵です。

  ここ数年、教えている生徒の名前をちゃんと覚えていない。中学から持ち上がった生徒はさすがに覚えるけれど、一年ないしは二年しか教えない生徒の場合は全然だ。近いところのことを覚える記憶力が劣化しているので覚えようとしても覚えきれない可能性はあるが、そもそも覚える努力をしていない。

さすがにちょっといかがなものかとも思うので、先日の授業では「きみはだれ?」と生徒の名前を確認しながら発言を促してみた。ま、そんなことやっても覚えられはしないのだけれど、名前を知り対話することで、多少パーソナルな関係を切り結ぶことができて、こちらの記憶に何らかのひっかりはできるような気がする。生徒の側の反応もそれなりに悪くなかったように思う。なま暖かい笑いが起こっていたし。

けれども、だから覚えるようにしよう、とはならないところが人間の人間たるゆえんだなあと思うのである。

こうしてわたしの短期記憶の劣化はすすんでいく。

2021年10月20日水曜日

旧暦9/15 記憶

垂渓庵です。

特になんということもない場面がなぜだかわからないけれどいつまでも記憶に残っていることがある。ほんとうに何でもないシーンで、なぜ覚えているのか分からない。

もううん十年も前、高校生の頃のこと。わたしは電車通学をしていた。その帰り、夕方から夜にかけてのことだったと思う。最寄り駅の一つ手前の駅で電車が停まった。ごく普通に乗り降りの人があったはずだ。わたしは窓の外のスーパーマーケットの出入り口を見ていた。そこにはちょうどスーパーを出ようとしている人が一人いた。スーパーの照明が逆光のようになってその人影はシルエットのようになっていた。それだけだ。そこから何が起こったわけでも、その情景に特別な感懐を抱いたわけでもない。けれどもその情景がただただ頭に残って離れない。

記憶に残るにはそれだけの理由があると思うのだけれど。記憶とは時にこういういたずらをするものなのだろうか。


2021年10月18日月曜日

旧暦9/13 鶯童さんの本のこと

垂渓庵です。

とある方から段ボール箱で2箱分ほどの本をもらい受けた。不要の本が一切合切で2箱分あるというのではなく、不要になる蔵書から選ばせてもらった2箱だ。もともと欲しかった本が結構入っている。それはそれとして、たまたま本を選ばせてもらいに行っている時に目についたのが浪曲師の梅中軒鶯童さんの自伝だ。鶯童さんは、「紀文の船出」などを持ちネタにしている。喉の故障で大きな声は出なくなったらしいが、台詞回しや節回しに工夫を凝らし、聞くものを魅了する「鶯童節」を作り上げたと言われている。「紀文の船出」を聞いていると、思わず楽しくなって、船で旅に出たくなってくる。紀伊国屋文左衛門たちはミカンを積んでの嵐の中の決死の船出なんだけれど。

とは言ってもわたしも直接鶯童さんの高座を見たことはない。何せ彼は昭和59年に亡くなっている。今からざっと40年近くも前だ。当時私は大学生だったけれど、浪曲のろの字も目に入っていない頃で、鶯童さんの名前も当然知らなかった。当時浪曲師で知っていたのは「広沢虎造」か「広沢瓢右衛門」さんぐらいのものだ。「虎造」はさすがにビッグネームだし、「瓢右衛門」さんは、テレビ番組でちょっとブレイクしていて、浪曲師というよりも面白いおじいさんとして認識していた。私に浪曲体験はほとんどなかったのだ。しかし、その後いろいろあって浪曲を聞くようになり、鶯童さんのうまさを知ったというわけだ。

その鶯童さんの自伝だ。とても興味がある。で、ぜひにと譲り受けた訳だ。中身は鶯童さんの芸談や思い出話で、今は詳細は省く。今では想像すべくもない芸能の話が色々出てきてとても面白いので、興味のある人は大きい図書館で探してみてください。

というような本が他にもいくつもある。また追々紹介していくことに仕様。

2021年10月15日金曜日

旧暦9/10 探せない

 垂形案です。

自宅に置ききれない本は職場や実家に逃がしている。 ということはいつかどこかで書いた。そうしていると、いざ必要な本が見つからないという困ったことになってしまう、というのはどこかに書いたことがあったものか。

つい先日も、必要に迫られて萩原広道の源氏物語評釈という本を見ないといけなくなった。家には、ない。職場に置いた覚えもないのだけれど念のために探した。が、やはりない。となると実家に置いたままになっている段ボール箱のどれかに入っているのだろう。で、箱の外側に「和歌の注釈書」とか「国語学関係」とか大まかな内容を書いてあったのを頼りに、送ったままになっている本の段ボール箱を開けてみた。しかし、「源氏関係」とか「注釈書色々」とか書いてある箱を開けた限りでは、「源氏物語評釈」はなかった。

多分、スペースの関係で、「注釈書」などではない箱に入れたのだと思う。が、全然記憶がない。片っ端から箱を開けようかとも思ったが、時間がなかったので断念した。というわけで、まだ必要な本は行方不明のままだけれど、そうやって段ボール箱の山と取り組んでみると、「ゴーゴリ」だの「ラテンアメリカ」だの「タルコフスキー」だのと書いた箱があることに気づく。そうか。そういやその辺の本も送ってたのだった。またいつか暇な時に取り出して見ることにしようかと思い、その日は実家を後にした。

後で気づいたのだけれど、ゴーゴリやラテンアメリカやタルコフスキー関係の本など、そもそもおれはたくさん持ってはいない。ゴーゴリは河出書房版の全集ぐらい。ラテンアメリカはたぶん集英社版の「ラテンアメリカの文学」+幾ばくかの単行本だろう。タルコフスキーに至っては、二冊本の日記と「映像のポエジア」ぐらいなものだ。つまり、それらの箱にはその他の本が紛れ込んでいる可能性が高く、「源氏物語評釈」もそこにあったかもしれないのだ。 ばかなの、おれ。

さらにさらに。萩原広道の「源氏物語評釈」の本文は、奇特にもPDF化してネット上で無料で公開している方がおられた。それを見れば、とりあえずの問題は片付くのである。

そうではあるが、本のありかが分からないのは気持ち悪いので、また暇を見つけて実家に行って確認してみようと思う次第なのである。

2021年10月14日木曜日

旧暦9/9 アニメを考える

垂渓庵です。

秋スタートのアニメの新番組が始まっている。ということは、夏スタートのアニメの多くは終わったということだ。このワンクールごとにどんどん作品が入れ替わっていく形式にはやっぱり慣れない。サザエさんやドラえもんといった超長寿のお化け番組は別として、やっぱり1年からせめて半年ぐらいのサイクルで作品が入れ替わってほしいと思う。全体の構成云々というような難しい話からそう思うのではなくて、単に作品名や登場人物名が覚えられないのだ。いや、そもそもどんな話なのかもあやふやになってしまう。記憶力の劣化というやつである。

そのうち劣化したおれの頭の中では、たぶんあり得ない組み合わせの冒険者のパーティーや、登場人物や舞台設定その他がどこかおかしい作品が生み出されていくことだろう。登場人物が死ぬと人型の穴ぼこができる異世界の話や、スライム狩ってチートな力が身についた魔女が薬屋を営む話などなど、今でも油断するとあれはなんだっけと存在しないはずの作品について考えていないとは言い切れないのがつらいところだ。

しかし、である。12、3話で完結する作品を多く見続けていると、4クールの作品など長すぎて視聴する気にならないのも確かだ。1~2クールを定期的あるいは不定期に積み上げる作品が望ましいと思わなくもないが、上記のおれの記憶の劣化が壁になる。外部記憶装置がほしくなるのはこんな時だ。そういや、外部記憶も含めて全身を義体化した消防士の主人公が活躍する作品があったなあ。あれはなんだっけ。