2012年9月14日金曜日

旧暦7/28 鹿が鳴く

垂渓庵です。

一昨日書いた会津八一について少し補足しておこう。


八一は歌人だ。と言い切ってしまってはいけないのだろう。ウィキペディアには、歌人とともに美術史家、書家とも紹介されている。が、わたしの中では、『自註鹿鳴集』の作者という位置づけがいちばん大きい。

彼は明治14年に生まれ、昭和30年代に死んだ。晩年は自分の歌集である『鹿鳴集』に自注をつけることに没頭したそうだ。

さて、その『鹿鳴集』だけれど、収録されている歌は、すべて平仮名分かち書きのスタイルで書かれている。こんな感じだ。

   (奈良博物館にて)
 ほほゑみて うつつごころ に あり たたす
 くだらぼとけ に しく ものぞ なき

   夢殿の救世観音に
 あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
 この さびしさ を きみ は ほほゑむ

なんというか、『鹿鳴集』を見る度に、この分かち書きに微妙な違和感を覚えるのだけれど、それはそれとして、おおどかな歌を作る人だと思う。

で、その歌につけられている八一の自注。これが歌柄とは打って変わって硬派の注だ。たとえば、「あめつち に」の歌の注。
救世観音・救世観音の名は、大陸の仏典または造像には、未だ曾て見えず。されど「救苦観音」といふものは、唐時代以後散見す。ことに河西省龍門の石窟の銘文にその例あり。(以下略)
文字の字体が問題になり、うまく表記できないので省略したが、この後で龍門の銘にある「苦」の字の異体字と「世」の異体字の類似から、救苦→救世という理解が日本で成立したのだろうという考証が、その他の様々な文献なども引用しつつ、ほぼ文庫本1ページにわたって展開されている。

どう考えても、「あめつち に」の歌にはあまり関係なさそうな注だ。

どうしてこんなことをするのだろう、と不思議に思わないではないけれど、美術史家でもある八一は、晩年にいたり、自註の形を借りて自己の学殖の総決算をしたかったのではないか、と考えると、それはそれで納得がいく気がする。

こんな注を自分の歌集につけられた八一は、幸せな人だったと言えるだろう。

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