垂渓庵です。
安倍元総理が銃撃を受けて亡くなられた。なんということだろう。折しも参議院選挙の投票の直前だ。思想信条の違いはあっても構わないけれど、わたしの思想信条も安倍元総理のものとだいぶ異なると思うけれど、これは許せない。
選挙を戦う与野党のみなさん。明日はぜひ党派の違いを超えて、喪章を身につけて選挙戦を戦ってください。この凶行は明らかな民主主義への挑戦です。
垂渓庵です。
もうすぐ七夕だ。竹を用意しなきゃいけない。が、せっかく用意しても竹は切ってから半日もすると葉っぱがくるんと丸まってしまう。毎年何だかなあと思っていたが、ネットには竹の横から穴を開けて中に水をためるとよいと書いてある。ドリルで穴を開けてもよいとのことなので一度試してみようか。
今年は梅雨が明けてしまったから、織り姫と彦星もよく見えることだろう。
垂渓庵です。
近畿はまだのようだけれど多くの地域で梅雨が明けたらしい。なんでだ。
なぜこんなに梅雨明けが早い。また、なぜ近畿がまだなんだ。の二つを重ねた「なんでだ」である。ことばの重層的手法だ。ほんとか。
さて、冗談は置いておいて。近畿では今後もまとまった雨が期待できるのならいいが、ちょっと心配なのが水不足だ。水不足になるんじゃないかと思ったおれが反射的に思い出したのが「さめうらダム」という名前。 字は書けないが、何十年か前、水不足とむすびついた四国のダムとして記憶していた。「早明浦」と書くのね。そういや連日報道されていたような気がするな。断水になったら嫌なので節水しよう。みなさんも心がけてください。
垂渓庵です。
なんとなく授業が面白くない。もともと授業と試験さえなければ、この商売も悪くない、と思っている人間だから、そんなに授業に熱心なわけではない。しかし、熱心ではないなりに教材を読んでいると、面白いなあと思える、学問のかけらのようなものを見つけることがある。そんな時は、授業が面白くなくもない。
変わった生徒がいればその生徒をいじることもできる。いや、変わっていなくてもいい。色恋沙汰で身辺が騒がしい生徒が居さえすれば、何くれとなくいじることが可能だ。失恋した女子生徒は鬼門だけれど。
しかし、今は問題演習が中心だ。問題の解説をどんどんやっていかないといけない。勢い、横道にそれることは難しい。問題演習が中心であるからして、生徒をいじる雰囲気にもなりにくい。
というわけで、授業が面白くなくなっているのである。
垂渓庵です。
多くの死者を出した遊覧船の業者が事業許可取り消しの行政処分を受けた。当たり前に思えるが、当事者の社長さんは、違う感想をお持ちのようだ。で、行政処分に関して「見せしめ」だという旨の発言をしたみたいだ。
それを言った意図が実はよく分からない。報道を見る限り、ずさんな管理運営の結果、あれだけの事故を起こしてしまったのだ。事業許可取り消しの行政処分はしごくもっともに思えるし、大いに同業他社への「見せしめ」になってほしいところだ。あの社長さんのところと同じようなずさんな会社はそうそうないだろうけれど、一罰百戒的なことを期待してはなぜだめなのか。あの社長さんにとっくりと聞いてみたいところだが、口をききたくもないのが正直なところなので、聞く機会はないままなのだろうと思う。
お亡くなりになった方の冥福を祈ります。
垂渓庵です。
先日、通勤途中のこと。身長が高くすらっとした後ろ姿で、ミニスカートをはいたとてもスタイルのいい人がいた。きれいな金髪のロングヘアーだ。 これで顔立ちが整っていたら、さぞ男がほうっておかないことだろう、と考えるでもなくぼんやりとその人を見ていた。気づくとおれの周りの男性諸氏もちらちらとその人の方を見ていた。
これが平安時代の物語や中世の擬古物語なら、きっとあの後ろ姿だけで惚れる貴公子が掃いて捨てるほどいることだろう。事ほどさように当時は男と女の接点が少なかったのである。
途中、大きな駅に着いて人が動き席が空いた。その人が向かいの空いた席に座った。マスクをしているのでよく分からないところがあったけれど、その人は男だった。びっくりだ。 なんというか、一挙に物語のジャンルが変わった音がした。これは、あれだ。『源氏物語』なんかじゃなくて『昨日は今日の物語』に出てくるような衆道系の話だ。
垂渓庵です。
先月、今月とひと月ずれるけれど、日にちは旧暦といまの暦とが一致していた。しかし、ここからは徐々にずれていく。来年の正月元旦で10日のずれだ。再来年の正月元旦だと20日ずれる。とはいえ、そのままどんどんずれまくるわけではない。再来年の11月にはまた日にちが一致するようになる。当たり前と言えば当たり前か。ひと月は最大30日しかないんだから。
では、月はどうか。何の手も加えなければどんどんずれていくはずだ。もちろん、1年は基本的には12ヶ月しかないのだから、いずれはぐるっと一回りして元に戻る。が、その間には、真夏に1月になったり、真冬に8月がやってくることも起こりうる。そうならないように適宜挿入されるのが閏月(うるうづき)だ。これによって月のずれが解消される。
現在の暦になれていると分かりにくいが、旧暦も毎日慣れ親しむようにしていると我と我が身になじんでくる。moonの月の見え方なんかは、むしろ旧暦の法がしっくりしてくるから不思議だ。
垂渓庵です。
またもや記事の投稿が滞りかけている。いかぬいかぬ。
先日、父が実家の鍵をなくしてしまったとかでスペアを作りに行った。してみると、鍵のタイプが古すぎるとかで、作れないと言われてしまったらしい。そんなことがあるんだと思ったが、実は実家の鍵は、もういつになるのかも分からない昔に壊れてしまって、その時にホームセンターで買ったものと付け替えたはずだ。たぶんホームセンターで売ってる鍵が廃盤になったんじゃないかと思う。なんか細長い変な鍵だし。
まだスペアがあるから当面の使用に差し支えがあるわけではないが、スペアもなくなると困ったことになる。一度休みに新しい鍵に付け替えに行かなきゃいけないな。
垂渓庵です。
先月に引き続き今月も今の暦と旧暦のずれがちょうどひと月だ。というわけで、今日は旧暦でも二日だ。今月末以降少しずつずれていくが、先月に引き続き、日の出と月の出の関係や月の形と旧暦の暦日との関係を見るにはいい機会だ。「月はどっちに出ている」と時折空を見上げてはいかがか。道に迷ってなくても。
垂渓庵です。
これまで何となく書きそびれていたのだが、今月は今の暦と旧暦とがちょうどひと月ずれている。というわけで、今日は旧暦でも18日だ。3月の、だけれど。
今日18日は15日(満月)の三日後なので、少しいびつな月が日の入りの約2~3時間後に東の空に顔を覗かせる。旧暦の月がどんな姿でいつ頃出てくるか、 体感するには今月がいい機会だ。みなさんも今月はできるだけ空に月を見つけるようにしてはいかがだろうか。
垂渓庵です。
追悼記事が二本続いてしまった。
松島みのりさんの業績等を紹介しようとして、はたと困った。どうも代表作が思い浮かばないのだ。ウィキペディアによると、活動時期は1960年代から2010年代まで50年近くに及ぶようだ。もちろんおれもその間に「松島みのり」という名前はしっかり覚えている。しかし、松島さんといったらこれ、というものがうまく思い浮かべられない。
仕方がないのでウィキペディアをざっと眺め回してみると、「国松さまのお通りだい」のオチャラ、「マジンガーZ」の弓さやか、「南の虹のルーシー」のルーシー、「キン肉マン」のみーとくん、と主役あるいは主役級の役をいくつも演じておられる。しかし、言われれば「ああそうか」となるものの、これだよねえというものがない気がする。
と書いては失礼なのかも知れないが、コンスタントに多くの作品に出演され続けたことからも分かるとおり、松島さんの真骨頂はバイプレーヤーとして欠かせない人だったことにあったのではないか。オチャラ、弓さやか、ルーシーと見てみると、作品に花を添える元気でちょっとおてんばな女の子的な立ち位置の役に欠かせない人だったと思われる。
いずれにしても冥福を祈りたい。
垂渓庵です。
藤子不二雄Aさんが亡くなられた。Aさんというと、やっぱり「魔太郎がくる!!」だな。おれ世代には直球の作品だろう。
当時おれの周辺では『ジャンプ』よりも『マガジン』よりも『サンデー』よりも『チャンピオン』の方が読まれていた。当時、「魔太郎」をはじめとして、「ドカベン」「がきデカ」「750ライダー」「エコエコアザラク」「ブラックジャック」「キューティーハニー」少し遅れて「マカロニほうれん荘」などが連載されて人気を博していた。
この記事を書くにあたって表記を調べるためにネットで検索をかけたものの、作品名自体は宙ですらすら出てきた。チャンピオンがいかに当時のおれにすり込まれていたか分かろうというものだ。
中でも「魔太郎」は異彩を放っていたように思う。「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」というセリフは死ぬまで忘れないだろう。連載当初の残酷な描写とあいまってそれほど強烈にすり込まれた。そもそもおれが恨みを抱く相手はいなかったにも関わらず。
この路線が後の「笑ウせえるすまん」に繋がっていったのだろう。さらに「怪物くん」「忍者はっとりくん」「プロゴルファー猿」とAさんの代表作を並べていくと、Fさんの「ドラえもん」その他の系列のものとは絵柄や作品の雰囲気が随分違っている。 それを全部藤子不二雄の作品としてまるっと認識していた当時のおれを「おまえにはこんな違いも分からないのか」と問い詰めてやりたい気がする。
いずれにしてもAさんの冥福を祈りたいと思う。あの世で何の屈託もなくAさんとFさんが再び藤子不二雄として作品を作ってほしいと思う。「オバQ」のように。
垂渓庵です。
さて、ブログを再開しよう。今回はこれまで再開のたんびに呪文のように繰り返してきた「すまぬすまぬ」だの「前回の記事からすごく間が空いてしまった」だのというような言い訳の言葉はなしだ。なぜなら、これが予定の行動だからである。春休み前に、春休み中は更新しないと思うよと予告してあった。だから、上記の呪文は必要ないのである。
してみると、「半年間更新しない」「1年間更新しない」と予告をしておけば、その予告した時期にブログを再開するのであれば、呪文はいらないということになるな。ふむ。何かおかしい気がするのはおれだけか。まあいい。とりあえずぼちぼちと更新を重ねていきたいと思う。
春休みは子供と遊び、子供と遊び、子供と遊んだ。よく遊んだと思う。コロナをおもんぱかって遠出こそしなかったけれど、毎日のように子供と外に遊びにいった。おかげで自転車の(電動だけど)走行距離だけはやたらに大きくなった。
今日からは通常運転だ。担当学年の成績を伸ばすために、またまた励まねばならぬ。やれやれ。
垂渓庵です。
職場的にはあと少し授業等があるのだけれど、所用が重なることもあり、更新できるかどうか分からない。というわけで、春休み明けまでの休眠を宣言しておく。途中で余裕があれば更新することもあるだろうけれど。
ところで前回の記事、なぜだか行間が広くなってしまっている。どこか変なところをいじってしまったものか。うまく修正できるかなあ。
図書館の除籍本の中に昭文社が出している山と高原地図の古い版が含まれていた。遠方への山行があるたびに自分が買った分は、少し前に当面行くこともなかろうと処分してしまった。が、おれにも多少コレクターの血が流れているのか、目の前に山と高原地図がどさっとあると、ついつい行ったことのある場所を中心に貰ってきてしまった。東北、中部地方、山陰、四国、九州と思えばずいぶんいろんな所に行ったものだ。百名山のうちの20~30座は登ったろう。さて、これから遠方の山行に行くことはあるかなあ。できれば行ってみたいものだ。
垂渓庵です。
ウクライナとロシアの双方が数日内の交渉の成果に言及したということだ。たぶん大勢は決したのだろう。ロシアの蛮行にウクライナが抗しきれなかったということになるのか、徹底抗戦の結果、ロシアから何らかの譲歩を引き出すのか。交渉の結果に注目していよう。個人的には徹底抗戦してほしいところだが、決めるのはウクライナの人たちだ。
今は対ロシア包囲網がロシア経済を締め付けているが、ウクライナが落ちた後はどうだろうか。なんとなくなし崩し的に包囲の輪がなくなっていくような気がする。その結果を見て、中国はどう出るだろう。台湾、尖閣諸島、南シナ海、火種はいくつもある。ロシアは北方四島でより強攻策をとってきているようだし、日本はいかれこれだな。ついでに韓国は竹島をとりにくるか、と思ったら文大統領じゃなくなっている。尹次期大統領は保守派だそうだから、支持率が低くなるまではとりあえず竹島にちょっかいはかけてこないのかな。
垂渓庵です。
今回のは単なるだじゃれネタだ。いや、だじゃれにもなっていない気がする。極めてくだらないだじゃれ未満の小ネタだけれど、プーチンに対する違和感がもとにないわけではない。
ウクライナの皆さん、ご武運を祈ります。
垂渓庵です。
タブレット用の折りたたみ可能な 支持台?を使っている。針金でできているごく簡便なやつだ。持ち運びに便利で重宝していたが、昨日何かの拍子にゆがんでしまった。針金でできている分、変形に弱いのか、ガタガタするようになってしまった。歪みを戻そうと力を加えてみたけれど、力加減が難しくどうにもガタガタがとれない。だれか歪みを取るうまい方法を知らないだろうか。
垂渓庵です。
今朝は家を出るのが少し遅くなって、いつもと違う時間の電車に乗った。例によってタブレットでアニメの視聴をしていたので気づかなかったのだけれど、いつごろからか、頭の上から聞こえてくる車内放送が、少し遅れて後ろの方からエコーのように響いてくる。ワイヤレスのイヤホンがの同期がきっちりとれていないような感じと言えばいいだろうか。
気づいてからどうも気持ち悪いなあと思いながら聞くともなく聞いていると、エコーの文言が時々乱れる。なんじゃ? と思い、よく聞いていると、スピーカーを通さない肉声だ。これは、あれだ。車内放送の真似をする人だ。しかし、他の真似をする人とは違い本物の車内放送の再現度がとても高い。もはや芸と言っていい領域だった。私の視野に入る人たちがどうもその音源の人を注視しているようだ。音源の人はたぶん普段はその電車に乗っていないんじゃないかな。いい感じで一日のスタートを切れたという気がした。
垂渓庵です。
遅ればせではあるし、影響力もないが、ロシアのウクライナ侵略に対して反対を表明しておきたい。どう考えても今回の侵略はロシアの無理筋だろう。帝国主義の時代じゃあるまいし。ロシア国内でもウクライナ侵攻への抗議活動が続いているそうだ。そりゃそうだ。それが普通の市民の反応だ。この活動にも連帯の意志を表明しておこう。プーチンさん、何か重大な計算ミスをしているような気がしてならない。今の時代に大規模軍事作戦は引き合わないということを身を以て思い知ればいいと思う。ウクライナ人にもロシア人にもプーチンさんが計算違いを思い知るための犠牲者が一人でも少なくてすみますように。
やはりこういう暴挙は許さないということを明確に表明しておかないといけないと思った次第。
垂渓庵です。
先日知人に連絡をとろうとメールを打ちかけていた時のこと。ふと「的中」という言葉が気になった。たぶんこの言葉を訓読するとしたら、「的(まと)に中(あ)たる」だろうけれど、なぜ「中的」じゃないんだろ。という疑問にとらわれたのである。
で、新字源を調べてみるも「中的」という言葉は見当たらない。「的中」は、ある。さらに「的」の意味を見てみると、もちろん「まと」という意味もあるけれど、「明らかに」とか「確かに」という意味もあるようだ。「的確」の「的」とか「的然」の「的」だな。となると、「的中」の「的」も同じように考えて、「的(あき)らかに中(あ)たる」と読むことができそうだ。ほんとうかな。
垂渓庵です。
少し時間ができたので久々に黒い本を読んでみた。黒魔術の本というわけではない。以前書いたことがあると思うが、古本で出回っている専門書とでも言えばいいだろうか。と書いてふと気になったので少しネットで検索をかけてみたが、それらしい言い方が出てこない。黒い本という言い方はおれの勘違いかも知れないが、面倒なのでそういう意味なのだと言うことにしておこう。
で、その黒い本である。おれの読む本なので、当然国語学や国文学の分野の本だ。それを読んでいると、時に「あなた何を言っていますか?」と言いたくなる部分がある。べつに著者が悪いわけではない。おれの理解力が低くて、著者の言いたいことがすぐには分からないのだ。で、そういう箇所をじっくり読んでみると著者の言いたいことがはっきり分かることがある。黒い本の楽しみの一つである。
垂渓庵です。
三回目のワクチンのクーポンが先日届いたのだが、接種可能日が4月末日になっている。えらいこと先じゃんと思っていると、娘の担任の先生が明日ワクチン接種に行くと言っていたらしいことを知る。そういや教育関係者は早くにうてるのだっけかと思い出し、だめもとで市のワクチンダイヤルというやつに電話してみたところ衝撃の事実が発覚した。
なんとクーポンその他封筒の内容一切は前回のワクチン接種の八ヶ月後にワクチン接種が可能だった時点での刷り物らしく、全部の情報を2ヶ月前倒しにしてくれというものだった。ということは、おれの場合は接種の可能日は2月21日からとなる。なんじゃそら。すぐじゃん。
ちなみに、そのような訂正が必要だという刷り物の一つでも入っていればまだしも、そんなものは一切入ってない。後追いで葉書が届くということもない。ひどくねえか。ということは、だ。クーポンの指示が正解だと頭から信じてその日付を待って予約を入れる人がいるに違いない。いや、下手すりゃそんな人の方が多いことも考えられる。たぶんわが市だけがそんな理解不能な対応をしているとは思えない。お役所仕事もここに極まれりだな。そりゃ3回目の接種が進まないはずだ。なんというバカな話か。
みなさんもいつから接種可能か、よく確認した方がよいですよ。
垂渓庵です。
最近、朝に家を出る時刻が少し不規則になっている。これまではコロナの影響による時差出勤の関係で、朝5時頃には家を出ていた。ラッシュの時間帯より前に職場に着くためだ。逆に夕方は15時過ぎに職場を後にすることが多かった。もっとも時間割の関係でその時間に職場を後にできるのは週に2日、運がよくて3日程度だったのだけれど。
それが今ではラッシュに重なる時間帯に家を出ることもしばしばだ。 これはあれだ。完全にコロナに対する警戒心の緩みに起因している。オミクロン株の流行につれて陽性者が爆発的に増えている一方で無症状~軽症で住む人の割合が増えてきていることにもよる。
そうは言っても両親は高齢者だし、おれもワクチンの三回目を接種していない。ちょっと気持ちを引き締めて、通勤時間をコロナの最盛期の頃の状態に戻そうと思っている。
垂渓庵です。
古典あるいは現代文の授業をしていて、毎年処置に困るのが文学史だ。センター試験(共通テスト)を視野に入れた場合、さほど重要ではないが、さりとて文学史的な内容を問う大学がないわけではない、という悩ましい位置にあるのが、文学史である。
無視するわけにもいかず、さりとて あまり深入りしても入試での出題頻度を考えるとコスパが悪いのである。というわけで、古典を担当するにしろ、現代文を担当するにしろ、授業を2、3回費やして最低限の説明をするようにしている。ま、どだい2、3回程度で千数百年以上にわたる長い期間の文学史や、近代以降の膨大な作品が作られる時代の文学史をカバーしきれるわけがない。骨子だけを伝えて、受験に必要な度合いに応じて生徒に作品名や作者名を補ってもらうことにしている。
と言っても乱暴な骨子なのだけれど、最低限のターニングポイントだけは伝えるようにしている。力業で文学史を強引にねじ伏せなければならないので、この時期なのに授業を終えると汗をかいている。普段のおれの省エネスタイルと違って熱演と言えるだろう。いや、おれの言っていることは本当か、と冷や汗を流しているのだという説もあるが。
垂渓庵です。
気づけば旧正月になっている。まったく時って奴は油断するとすぐに経ってしまう。
「異世界美少女受肉おじさんと」という変な題名のアニメが今放映されている。ま、異世界転生ものと言っていいのだろうが、ちょっと変わった作品で、思わず吹き出してしまう描写がなされている。詳細は省くが、異世界転生ものであるという点では「リゼロ」や「無職転生」などと同じ範疇に属してるが、おっさんが美少女に転生するという独自部分を持っていると言えそうだ。
「リゼロ」には主人公が死ぬことで出来事に変更を加えることができるという独自部分があるし、「無職転生」は、無職のひきニートが転生することにより諸々の状況や感懐が生まれるという独自部分を持っている。
こうやって見ると、異世界に転生するという大枠(世界)があり、それを踏まえてそれぞれの作者が独自の味付け(趣向)をして作品を作っていると言うことができそうだ。S口先生がよく言っていた「世界」と「趣向」の概念で最近のアニメやらラノベやらマンガやらは説明できるのかも知れない。 しらんけど。
垂渓庵です。
この間、かなり前に読んであった本を再び読み直す機会があった。復習のようなつもりでいた。しかし、である。前に読んだ時に引いてあった傍線の部分を見ても、琴線に触れるというか、記憶の底を引っかかれるというか、そういうところが全然ない。ものの見事にきれいさっぱり忘れている。いっそ見事と言っていいくらいだ。こんなのは復習と言わないんじゃないか。
おれは思った。これまでに読んだ本が全部こんな調子だったらどうしよう。いささか不安である。というか、それ以前に、こんな状態を「読んだ」と言っちゃいけないだろう。個々の内容は忘れて、エッセンスだけがおれを形作っているとでもいうのか。しかし、読んだ本のエッセンスだけを残すほどおれの頭が優秀だとは思えないし、エッセンスを残して今の状態なのだとすれば、おれの頭はポンコツ過ぎる。
何とも割り切れない話ではある。
垂渓庵です。
神仏習合という現象がある。簡単にいうと、日本のやおよろずの神様たちを仏教の仏さんや菩薩さんと結びつけて理解しようとする営為のことだ。たとえば、伊勢に鎮座まします「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を「大日如来(だいにちにょらい)」と同一視するような理解の仕方を言う。本地が「大日如来」で垂迹が「天照大神」だと言われたりもする。いわゆる本地垂迹思想というやつである。
ことほどさように日本では仏教と神道とが切っても切れない間柄だった。それは下々の者の意識にまで及んでいたと言っていいだろう。七福神の中には「えびすさん」のようにもともと日本の神様である方もいれば、「弁財天」や「毘沙門天」のように仏教系の神様(?)もいるし、「寿老人」や「福禄寿」のように道教由来らしい神様もいる。「布袋さん」は弥勒菩薩の化身と言われている。七福神、えらいことグローバルじゃないか。
良くも悪くもそういう習合状態だった神様と仏様を強引に分離しようとしたのが明治時代の廃仏毀釈運動だ。文字通り「仏さんを廃し、お釈迦さまを毀(こわ)」そうとした訳だ。習合状態の神さまと仏さまは、おそらくそのごっちゃになった状態でご先祖様に受け入れられ、血肉となっていたはずなのに。 明治時代がいかにそれ以前と以後とを断絶させたかは、この例を見ても分かる。近代化には必要なことだったのかも知れないけれど。しかし、長い目で見た場合、グローバリゼーションに反していやしないのか?
垂渓庵です。
1月20日はボボ・ブラジルの命日だった。おれは全盛期のボボ・ブラジルの姿をリアルタイムで知っているわけではない。おれの記憶にある姿は、彼が全日のリングに上がってからのものだ。おそらく全盛期は過ぎていたのだろうが、馬場さんのようにでかくてなおかつ動きが馬場さんとは違ったことをうっすらと覚えている。
この話一つをとっても分かるように、おれは昭和、平成、令和と生きてきたが、記憶に色濃く残るあれやこれやはやっぱり昭和の頃のものだと言っていい。やっぱり若かったし、記憶の定着率もよかったのだろう。
さて、そんな風に「昭和」は今でもおれにとっては生きていてリアルな存在なわけだけれど、ネット上では時に「昭和時代」と表現されることがある。そもそもそんな風に十把一絡げにくくれるのかということはさておいて、「昭和時代」というのはおれにとっては違和感を感じる言い方だ。しかし、「明治」「大正」「昭和」と並べてみると、「昭和」「平成」「令和」という並びの中での「昭和」の位置づけが分からなくもない。もはや時代の趨勢と言っていいのだろう。しかし、違和感がなくなりはしない。「昭和」にご存命だったはずの多くの「明治男」や「明治女」も「明治時代」という物言いに同じような感覚を持っていたのだろうか。軽々しく「明治時代」と言って十把一絡げにしていた自分の不明を恥じなきゃいけないところだ。すいません。おれは誰に謝っているのか。垂渓庵です。
年末にブログを一旦停止してからずるずると日数を重ねている。またまたブログ中断の危機に陥っているので、えいやっと更新することにした。
特にこれといった話題があるわけではないが、スタートしだしている冬アニメにあんまり面白そうなものがないなあと思っていたが、実際に見てみるとそうでもない。ま、その辺の話題については追々と。
通勤途中でタブレットでアニメを見ているというのは以前書いたかも知れないけれど、さすがに飽きてきた。もちろん視聴は続けるけれど、本を読んでもよいなあと思ってみたり。というわけで、一冊だけ通勤鞄に入れることにした。目崎徳衞さんの『王朝のみやび』である。目崎さんの本は何冊か読んでいるが、肌に合っていると言えばいいのか、面白いと思えるものが多い。そのあたりについても追々と。
というわけで、今年もよろしくお願いします。