2012年7月6日金曜日

旧暦5/17 『戊辰物語』と神仏分離とづら

垂渓庵です。

このところ『戊辰物語』の記事を何度か引用した。読めば読むほど面白い。ある意味ネタの宝庫だと言える。

その中で、今回取り上げるのは、神仏分離令が引き起こした廃仏毀釈の激しさを彷彿とさせるエピソードだ。その場面を想像すると笑ってしまうような話だけれど、大まじめにこんなことが行われていたのかと思うと、ちょっと恐くもある。

 以下本文。

(前略)それも明治十年前後というが、われわれ坊主の一番虐待された時代でひどいもんじゃったよ。

何しろ例の兵部省というのが寺をぶっ潰す考えで神仏分離ということをやりおった。そこで世間はすべてが神徒で、坊主は飯の食いあげさ。わしら坊主どもが伊勢大廟に参拝すると、坊主はまかりならぬということで、先ず一張羅の衣を脱がせられる。それだけならいいが、坊主頭が気に食わぬといってチョン髷のついたかつらをかぶせられる。そのまたかつらという奴が、子供の手習い草紙で作った急製かつらだったのには泣くにも泣かれぬ虐待じゃ。これというのもみんな山田の神主が勝手にきめたことじゃった。(「永平寺管長北野元峰禅師談」 岩波文庫『戊辰物語』145ページ)

以上本文。

なんと、伊勢神宮では、参拝に来た僧侶の袈裟を脱がせ、頭にちゃちなづらを被らせたというのだ。上にも書いたが、その風景を想像すると何だか笑い出したくなるが、大まじめにそんなことが強制されていたのかと思うと、薄ら寒い気持ちにもなる。

「北野元峰」の談話の続きには、熱田神宮の鳥居の前の立て札に「僧侶不浄の輩入るを許さず」とあったとも述べられている。僧侶は不浄の輩と同じ扱いを受けたということになる。それを押して参拝しようとしたらいったいどうなったのだろう。

引用は短いけれど、よく分からない部分がいくつかある。まず、「兵部省」が「寺をぶっ潰す考え」を持っていたということについて。なぜ兵部省が出てくるのだろう。管掌分野が全然違うような気がする。まさか、寺をつぶして鐘やら鈴やら鐃鉢やらをかき集めて、鉄砲や大砲を作ろうという魂胆だったのか。あるいは、寺社に関わることなので、「教部省」の誤りという可能性もある。が、教部省が寺をつぶそうとしたのかどうか。どうもよく分からない。

「山田の神主」については、「山田」が伊勢外宮の門前町を指しているのだとすると、この神主というのは、外宮の神主のことかと思われる。明治十年前後は誰が神主だったのだろう。外宮ということは、ばりばり伊勢神道の流れを汲む方だったのだろうか。

以前、和歌山の人から高野山のお坊さんがかつらをかぶって橋本に飲みに来るという話を聞いたことがある。今だと難波あたりまで出張っているのかもしれない。祇園で派手に遊ぶのはお坊さんだとも聞いた。いずれも真偽のほどは知らない。そういえば、韓国のお坊さんの徹夜のばくち風景が隠し撮りされていたと話題になっていたのは、五月初旬のことだったろうか。

いけない、話が逸れた。上のエピソードを語った「北野元峰禅師」は、明治期の永平寺・総持寺分離運動の際に調停に努めた人らしいが、詳しくは知らない。維新後、檀家の大名や武士が神徒に鞍替えしたため寺が困窮し、境内に畑を作ってしのいだりもしたようだ。

いずれにしても、話としては神仏分離だの廃仏毀釈だのということは知っていたけれど、こういうエピソードを知ると、具体的に理解できる気がする。こんな風に、何かのきっかけでだーっととんでもないところまで行ってしまう心性が自分にもあると思っておく方がよさそうだな。

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