2013年6月5日水曜日

旧暦4/27 続・専業主婦は育児休業の夢を見るか

垂渓庵です。

前回は、女性の社会進出が求められる中、専業主婦という形で子育てなどをしっかりしたいという女性やその家庭の切り捨てとも言うべき状況が生まれていることに言及した。わたしは、こう思うわけだ、それでいいのですか、と。

一時、妻の体調その他の関係で、どうしても子供を保育園に預けないといけない時期があった。当然わたしが子供を迎えに行くことになる。その際に経験したことだけれど、入り口に人影が見えると、何人もの子供達がわらわらとやってくる。その中にわたしの子供もいる。で、二人で帰宅ということになるわけだけれど、わらわらやってきた子供達の中には必ず泣き出す子がいた。自分の親じゃなかったのが寂しいのだ。

わたしの子は期間限定で行っているということを理解していたので、そんなことはなく、遊び場が一つ増えたぐらいの気持ちでいたようだ。しかし、両親あるいは片親が仕事をしている関係で預けられている子どもたちだと、恒常的に一日のかなりの時間を親から引き離された状態で過ごさねばならなくなる。中には寂しさのあまり泣いてしまう子が出て来る訳だ。

そんな子が不憫だからみんな専業主婦になれと言うのではない。そうではなく、子供の発達を考えた場合、ある程度の年齢──子供にもよるかもしれないが、就学年齢を下回ることはないだろう。少なくとも三歳ではないはずだ──まで、しっかり親が関わるのは必要なのではないかと思うのだ。

エコノミストあるいはエコノミスト崩れの評論家の中には、少子化の中で保育園は子供に社会性を身につけさせる場となっており必要だ、というようなことを言う人もいる。が、それは完全に後出しの理由付けで、女性の社会参画という錦の御旗を振り回す関係上、ひねり出した理屈にすぎないように思えてならない。発達科学などの知見を元に、子どもを幼少期から親と引き離した方がいいという説得的な論を展開している人をわたしは知らない。

養老孟司さんは、『まともな人』(中公新書)の中で、保育園がいわば親代わりとなって子育てをやることについては、慎重でなければならない、なぜならそれが子供にとっていいことかどうかは分からないからだ、ということを書いておられる。そして、子育てについての実証的な研究がほとんど行われていない現状で、これ以上子育てを変えることに疑義を呈しておられる。

わたしには、もっぱら経済という観点から人間について議論をするエコノミスト各位の意見よりも、養老さんの意見の方が極めてまともに思える。もちろん、わたしは共働きはいけないとも、子供を保育園に預けてはいけないとも言うつもりはない。それぞれの家庭の事情があろうと思うからだ。

しかし、一方で、世の大人は子どもの発達にもっと意を払うべきだろうとも思う。社会の制度設計や国の舵取りをする行政府や立法府の方々はその先頭に立つべきだろう。

経済の論理を優先して子どもの発達に意を払わないというのは、国民の安全よりも経済を優先させて原発を推進したエネルギー政策に見るように、日本のお家芸なのかもしれないけれど、そんなお家芸は要らない。その揚げ句に福島第一原発がどうなったか思い起こしてみるといい。

少なくとも、社会の安定ということを考えるなら、子育てに積極的に関わろうとする親が多ければ多い方が望ましいはずなのだ。その先頭に立つのが専業主婦だろう。もちろん、専業主夫であってもいい。それらの人達を後押しする施策も、保育園の充実などと同様に検討されるべきだと思う訳だ。

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