2015年9月2日水曜日

旧暦7/20 石田穣二さんすごい

垂渓庵です。

職場の行き帰りに本を読んでいる。何度も書いていると思うけれど。

このところはちょっと硬めの研究書を読んでいる。石田穣二著『源氏物語攷その他』だ。と書こうとして「攷」の字がなかなか出てこなかった。そんなに珍しい文字ではないと思うのだけれど。ワープロソフトの辞書大丈夫か。

さて、石田穣二さんは、わたしが学生のころは、角川文庫の枕草子や新潮日本古典集成の源氏物語の著者として知られていた人だ。などと書くまでもなく、中古文学研究の第一人者だった人だ。十年ほど前に亡くなっておられる。

わたしが学問のまねごとをしていたころは脂の乗った研究者だったはずだけれど、学会などでお見かけしたことはたぶん、ない。ま、研究者の名前や顔にはあまり興味がなかったので、誰かに教えてもらっても、スルーしていただけかもしれないけれど。


さて、『源氏物語攷その他』は、石田さんの数少ない単著の一冊だ。ウィキペディアによれば、単著の論文集はあと一冊だけ。『源氏物語論集』のみ。

『──論集』は見たことがない。『源氏物語攷その他』は、たまたま書店で見つけて買ったものだ。蔵書の整理をする関係で目にとまって読んでいる。

内容について云々する力はわたしにはないけれど、つくづくすごい人だったのだなあということぐらいは分かる。たとえば、石田さんはこう書く。

作品といふものがそこにあると考へるのは錯覚に過ぎない。そこにあるのは、文字の羅列に過ぎない。 作品といふのは、一箇の世界なのであつて、それは、厳密には、読みといふ作業によつて成立する一つの現象にほかならない。注釈が、読みといふ作業の何等かの形で定着されたものであるとすれば、注釈がすべてであると言ってもよいであろう。(341ページ)

かういふことを言ふと叱られるかもしれないが、近代の国文学には「論」が多すぎるやうに思ふ。大学で「卒業論文」が課されるせいなのであらうか。「論」以前に大切なのは、読みといふ実技であると思ふ。(同)

そうそう。いくらご大層に作品論をぶったとしても、肝心の作品をしっかり読めてないんじゃしようがないのである。と、偉そうなことをいえる立場ではないのだけれど、注釈という作業がいかに大変かは、古文の教材作りのために注釈のまねごとをしてみると、身にしみてよく分かる。宣長すげえ。藤井髙尚すげえ。

石田さんに源氏、枕という中古散文の両横綱的な二作品の注釈がある一方、論文集が少ないのも、そういうお考えが根っこのところにあるからかなと思ってみたりするのである。

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