2021年12月23日木曜日

旧暦11/20 アンソロジー

 垂渓庵です。

 現代川柳を概観する上でよい本が出版された。『近・現代川柳アンソロジー』(桒原道夫、堺利彦編 新葉館出版刊)だ。

『川柳カード』みたいな先鋭的な雑誌にもきちんと目配りをした選がなされていて、現代俳句の尖ったところともいい勝負ができるような作品が集まっている。すげえ。

後書きにもあるとおり句本意の選句がなされているようで、さもありなんという人が選ばれているなあと思える一方で、あれ、この人入ってないのというようなことも起こってくる。おれにとって意外だったのは大西泰世さんが入っていないことだ。そんな目で見るのもこのアンソロジーの楽しみ方の一つと言っていいだろう。この一冊が触媒となっていろいろな人にいろいろな思いを抱かせるということになっていくのではないか。

 おれとしてはこのアンソロジーがきっかけとなって世の中に川柳のアンソロジーのブームが起きるといいなと思う。それはともかく、少なくともこれが近・現代川柳の見取り図であり、一つの到達点を示していることは確かだろう。我々はここから進まなければならないのである。と思わず力こぶの入った書き方になってしまった。
 

2021年12月21日火曜日

旧暦11/18 さ、寒い

 垂渓庵です。

 なんかここんとこいきなり寒くなってきた。もともと冬ってこんなものだったのか、昔と比べてどうなのか、ちょっと覚えていない。冬の通学途中では水たまりの水が凍ることがあったように思うけれど、今の時期のことだったのか、正月明けから二月にかけての寒気が厳しくなる頃のことだったのか、すべては忘却の彼方である。が、とりあえず寒い。

寒いといえば、小学生の頃、冬に近所の裏山に行った時も寒かったなあ。小川の水が凍ったり、水しぶきが当たるあたりに丸い玉状の氷がいくつも連なってできていたりした。断っておくが、うちの実家はえらいこと田舎ってわけではない。大阪府下、曲がりなりにも大阪平野のはじっこで、大阪市内に出るのに電車で20分もかからないところだ。

今住んでいるところで水たまりの水が凍ってることなどほとんどない。地球温暖化のせいなのか。と、局所的な気象の変化を安易に温暖化に結びつけていいのかどうかも分からない。とりあえず言えるのは「寒い」ってことである。早く帰って風呂入って寝よう。

2021年12月20日月曜日

旧暦11/17 静岡に何が

垂渓庵です。

mixiのニュースを見ていると、昨日今日とリニア新幹線関連の記事が続けて上がっていた。下の二つの記事だ。

https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=6783698&media_id=168

https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=6784244&media_id=168

これはあれか。国交省が邦人の帰国に関する失点(下の記事参照)を取り返そうとしているのか。どう取り返せるのかは知らないけれど。あるいは一つのことに注目して継続してニュースを集めていくと思わぬ構図が見えてくるようだ。

次は多分財務省が森友殺人事件の失点を取り戻そうとして何らかの動きを見せるんじゃないかな。

https://www.sankei.com/article/20211202-CYUMQEA64RKGPNVGWBDFQCQYFQ/

2021年12月17日金曜日

旧暦11/14 カウントダウン

 垂渓庵です。

いよいよ年の瀬だ。2学期の授業終了日も近い。授業終了前には当然成績出しやらなんやかんやと業務がある。忙しいことは忙しいが、長期休暇が近いということもあり、あまり苦にならない。 というわけで、このブログも来週にはいったん休止状態に入る。以前の休止が長かったから、中断したらまた更新しないままになるのではないかという懸念がないではないが、アウトプットするにはインプットも必要だ。というほど大層なことをやっているわけではないのでだらだらと更新を続けてもいいんじゃないかと思わなくもないが、家でちまちまと更新するのもなあということもあり、やっぱり中断する次第だ。冬休みが終わったら更新再開のつもりにしている。あ、まだ来週は更新する予定だけどね。

2021年12月16日木曜日

旧暦11/13 「また殺された」あるいは認諾

 垂渓庵です。

森友事件で国あるいは財務省に殺された公務員の奥さんが国を相手どって賠償を求めていた訴訟で、国は裁判に入る前に賠償責任を認めて賠償手続きに入ったらしい。 これを認諾と言うそうだ。要は裁判を行っていくと国や財務省の非が明らかになって絶対裁判に負けると考えたということなのだろう。そういうわけで、1億円という巨額の賠償金をあっさり呑んだというわけだ。決めた要路の方々の懐が痛むわけじゃないからな。あ、良心もないから痛まないのか。

これに対して奥さんは、「ふざけんなと思います。お金を払えば済む問題じゃない。私は夫がなぜ死んだのか、なぜ死ななければいけなかったのか知りたい」と言っていたそうだ。さもありなん。「夫は国にまた殺された」ともおっしゃっていたらしい。

森永ヒ素ミルク事件の民事訴訟において弁護士の中坊公平さんは、乳児の「唯一の生命の糧」に毒物を混入させながら責任を認めない企業、そして「後遺症はない」とした国によって「被害者は、二度殺される」と述べた。1973年の話だ。この国は50年前と何も変わっていない。国民を念入りに殺してくれる素晴らしい国のようだ。先の戦争で死んでいった方々はこんな国になってほしくて死んだのだろうか。アベさんに聞いてみたいものだ。

2021年12月14日火曜日

旧暦11/11 ヨルムンガンドとブラックラグーンと読書

 垂渓庵です。

最近、電車バスに乗っている間はタブレットで動画を見ていることが多い。昔は通勤途中に本を読んでいたものだけれど、通勤途中で本を読むことは絶えてなくなった。最近は子供が手がかからなくなってきたこともあり、家にいる間に本を読む時間を捻出できるようになってきた。もちろん通勤途中も本を読めばいいわけだけれど、『ヨルムンガンド』や『ブラックラグーン』あたりを視聴してからは、読書@家、動画視聴@電車バス、という形が定着している。

逆にならないのは、家で動画を見ていると、子供もずるずるとアニメを見倒してしまうことになるからだ。彼らの視聴に対する貪欲さは端倪すべからざるものがある。下の子は気に入った作品があると、録画したものを飛ばしながらガシガシ視聴を進めていく。上の子は今は一点一画をおろそかにせずアニメを見ており、下の子の視聴方法を批判するけれど、 なーに、自分だって小さい頃は同じようにして見ていたのだ。どちらもアニメ好きなことに変わりはない。同じ穴の狢というやつである。上の子はラノベを中心に活字にも手を伸ばしだしていて、この間は除籍本を学校図書館から大量に貰ってきていた。中にホイジンガの選集があって驚いたが、さてどれぐらい読み進めているやら。

なんにせよ、彼らがもう少し分別がつくまでは電車バスでの動画視聴は続きそうだ。

2021年12月13日月曜日

旧暦11/10 古い映画 

 垂渓庵です。

 学期末の成績出しにはノートのチェックや平常点の算出等を行う必要がある。ほぼ自分のパソコンあるいはタブレットで処理できることだが、最終的な成績を学年の一覧に入力するためには情報処理室のパソコンを使わないといけない。というわけで、成績入力の時期には情報処理室がとても混み合ってしまう。

 パソコンの順番が回ってくるまでへんに時間が空いてしまうことがある。そういう時はタブレットで古い映画を見ることにしている。今見終わったのが『弥次喜多道中記』。遠山金四郎と鼠小僧次郎吉が互いの正体を知らないままに弥次喜多として京まで旅をする話で、花も実もある遠山裁きが最後に見られる。なんかディック・ミネらが扮する本物の弥次喜多が歌を歌うし、楽しい映画だ。遠山金四郎役の片岡千恵蔵もいい味を出している。

次は何を見ようかな。

2021年12月2日木曜日

旧暦10/28 木金土

 垂渓庵です。

 何日か前の夜空を見上げると、明るい星 やや明るい星 すごく明るい星と南から西の方角の空にかけて並んでいた。多分、木星 土星 金星だったんじゃないかと思う。もっと距離が詰まっていたら、結構珍しい現象なんじゃなかろうか。そこらあたり、詳しくは分からないけれど、天文年鑑や天文関係のサイトなどを見ると分かるんじゃないかと思ってみたり。あえて調べないけれど。

それはともかく、木星の衛星のガニメデはホーガンの「星を継ぐもの」でガニメアンの宇宙船が発見された星として思い浮かぶ。金星はやっぱりスタニスワフ・レムの「金星応答なし」だな。土星は。ええと土星は、すぐに思い浮かばない。主な舞台というわけではないが、カート・ヴォネガットの「タイタンの妖女」あたりか。

などと星を眺めながらとりとめもないことを考えた。

2021年11月26日金曜日

旧暦10/22 この世に神はいるのか

垂渓庵です。

もう昔も昔、大昔の話である。高校を卒業してしばらく経った頃、今はなくなってしまった旭屋書店梅田本店ビルで本を物色していた時のことだ。高校の地学部の先輩のK田さんとばったり出くわした。3階の岩波文庫の棚の前あたりだったと思う。K田さんはおれと違って温厚を絵に描いたような人で、在学時から常に穏やかににこやかに人に接する方だった。おれたちは「久しぶり」「お久しぶりです。大学生活はどうですか」「必要な単位をとるのに忙しくて」と型どおりの会話を続けていたように思う。それが何の話からだったのか、全く覚えがないのだけれど、神は存在するかというような方向に話題が移っていった。おれはあの時フォイエルバッハの『キリスト教の本質』の上巻を買ったと思う。そんなところから話題が神がかっていったのかも知れない。

あの時も、いや、その後も、おれはずっといい加減な人間だ。いきなり「神は…」と言われても困るのだが、「神はいないと思う」というようなことを答えたのではなかったか。もしも神がいるなら、なぜべらぼうな数の戦死者を出す戦争が起こり、悲惨な境遇の人が生まれ続けるのか分からないというようなことを付け加えたと思う。

それに対するK田さんの返事はどうだったか。残念ながら忘れてしまった。その後しばらく立ち話を続けて別れた。それ以後K田さんにお目にかかることはないままだ。なぜだかそんなことを思い出した。

2021年11月19日金曜日

旧暦10/15 アライダヌキ

垂渓庵です。

ここ最近よんどころない事情により早くに出勤しているのだが、先日の明け方のことである。まだ日の出まで間のある薄暗い中、自転車で出かけようとすると、近所の造成地のフェンスの穴から結構大きな動物が出てきた。形からするとアライグマか狸らしく思える。うおっと思って観察することしばし。薄暗い中とて結局どっちかはっきりとは分からなかったが、 どうも尻尾にシマシマがなさそうだ。それに、『あらいぐまラスカル』の最終回、成獣になったラスカルの大きさを思い出してみても、ちょっと大きすぎる気もした。というわけで今はたぶん狸だったんじゃないかと思っている。

いずれにしても狸だかアライグマ──アライダヌキとでも呼んでおこうか──だかの成獣がうちのごく近所にいたわけだ。うちの近くはものすごく都会というわけでもないが、手つかずの自然が豊富というのとも違う。都市近郊の普通の住宅地だ。あれだけ大きくなっていると人目につくだろうし、そもそも何を食って生きてきたのかも気になる。とても野良の動物にとって生きやすい環境とは思えない場所で、あいつはそれなりにがんばって生きてきたのだろうと思うと思わず目頭があつくなった、というのは嘘だけれど、造成地から出かけてまた戻っていった後ろ姿に「がんばりなはれ」と心の中で声をかけたのは本当だ。願わくは人さまに迷惑をかけずに長生きしてほしい。

2021年11月18日木曜日

旧暦10/14 ナルト走り? 忍者走り? キ~ン?

垂渓庵です。

以前『プリンセス・プリンシパル』を見ていた時のこと。作中の忍者っぽい子が特徴的な走り方をしていることに気づいた。体を前傾させ、両腕をそれぞれ斜め後方に開いて固定させる走り方である。飛行機の可変後退翼的な形というか、そんな走り方だ。それを見ていてふと「どこかで見たことがあるなあ、この走り方」と思った。その時はそれで終わった。

その後、『ソードアート・オンライン』を視聴した時、キリトだったかアスナだったかが『プリンセス・プリンシパル』の可変後退翼のような走り方をしていることに気づいた。これで『プリンセス・プリンシパル』、『ソードアート・オンライン』、それに作品名を思い出せないままの一作品の都合三作で同じような走り方が出てくると分かった。

点が線に伸びたわけだが、だからどうしたというわけでもなくそのまま長らくうっちゃらかしておいたのであるが、先日『takt op.destiny』(だったと思う)にも同様の走り方が出てきた。線がさらに伸びた。で、さすがに気になったので改めてネットで調べてみると、淵源は『ナルト』や『聖闘士星矢』にあるらしいことが分かった。

アラレちゃんの「キ~ン」という走り方だという声もあるようだが、正確にはアラレちゃんがもっと前傾姿勢を取って両手を斜め後方に移動させた形にならないと「(仮称)可変後退翼走法」にならない。アラレちゃん、そんなに前傾姿勢を取ったら顔を地面にこすりつけながら走ることになってしまう。おそらくアラレちゃんの走り方は別物だろう。

忍者走りとも呼ばれるようだが、『サスケ』や『カムイ外伝』に出てくる古典的な忍者はあんな走り方をしちゃいない。「忍者走り」は正確には「類忍者走法」といったところだろう。興味深いのは、「忍者走り」という呼称も「ナルト走り」という呼称もどちらも『ナルト』に行き着くことである。呼称から判断する限りはあの走法は『ナルト』由来と言えそうだ。が、まだ『聖闘士星矢』がある。それがどう関わってくるのかは今後の研究課題としておこう。

2021年11月16日火曜日

旧暦10/12 坂井三郎さんになるために

 垂渓庵です。

昨日、17時前の南東の空に月が浮かんでいた。日没後すぐぐらいで、空もまだ薄い青空という感じだった。天文薄明と言うには少し早い時間だったと思う。そこで思い出したのが撃墜王坂井三郎さんが鍛錬の結果、昼間に星が見えるようになったという逸話だ。

まだ星が見えるには少し早い時間だったが、月の先の方には木星がある。明るさは金星には及ばないがマイナス2等級ぐらいだ。頑張ったら見えるのではないかと思い頑張ってみた。幸い月との位置関係からあたりをつけることができる。で、木星を探すことしばし。ありました。一つだけ光っている星が。あんなに明るい空に星が見えるなんて、ちょっと感動した。星が見えるよと教えてやった娘も少し驚いていた。

あんな風に当たりをつけながら星を見つける練習をしていけば、坂井三郎さんのように昼間に星が見えるようになるかもしれない。そう思わせる体験だった。

2021年11月12日金曜日

旧暦10/8 急に寒くなった

垂渓庵です。

今も時差出勤を続けている関係で朝は無茶苦茶早く出る。二時には家を出ているだろうか。その関係で夜はめっぽう早くに寝る。六時頃には寝に就いている。というのは今考えついた嘘だけれど、早くに出ているのは本当だ。五時頃には出ているだろうか。今の時期は五時でもまだ暗い。

暗いだけならまだいいが、ここのところ滅法界寒い。下着を長袖に替え、上着を厚手のものに替えても寒い。そうかと言って、下着を厚手のものやヒートテックにしたり、カイロを下着とワイシャツの間あたりに忍ばせたり、あまりにも寒冷地仕様の出で立ちにすると、太陽がぽかぽかと暖かい昼間に地獄を見ることになる。しようがないので上着で調整ということになるが、これが案外難しい。

コートみたいなのは自転車に乗りにくいので勢いジャンパー的なものを着ることになる。なるが、山登りに使うようなものはさすがに暑いし、薄手のジャンパーでは寒い。ちょうどいい感じになるのを探すのが大変だ。家を出る時のチョイスを間違えてしまうと自転車で震えることになる。

コロナが減っているとはいえ、下手に風邪をひいて発熱してしまうと、熱が下がってからもしばらくは出勤できない。別にしたいわけではないが、出勤できないとテスト範囲がなくなってしまう。というわけで、出勤時の服装はけっこう重要な問題なのである。

2021年11月11日木曜日

旧暦10/7 書類仕事

垂渓庵です。

この時期、税金関係の書類を事務室に提出しないといけない。何となくこれまでと同じと思っていたら、なんと今回はこれまでとは別の書類をとってくる必要があるということだ。書類関係は基本ぎりぎりまでほったらかしていることが多いので、いきなりこういうことが起こることになる。

ううむ、困った。 もともと取ってこないといけない書類は用意してあるが、別の書類は用意してない。暇を見つけて取ってこなきゃいけないな。やむを得ないのでどこかで時間を見つけて行ってこよう。

今回に限らず書類関係では自分が困るだけでなく事務方の人を困らせることも多々ある。考えを改めるようにしないといけないなと強く思う。まずはできるだけ早く書類をとってこよう。と言っても最速明日になりそうだけれど。

2021年11月10日水曜日

旧暦10/6 追悼・太田淑子さん

 垂渓庵です。

 人間五十を超えると身の回りに不幸ごとが増えてくる。祖父母はもちろんのこと、おじ・おばにしても鬼籍に入る人が増えた。なじみの作家さんや俳優さん、声優さんも同様だ。本欄でも何人もの作家さんや声優さんたちを偲んできた。今また一人、太田淑子さんが逝ってしまわれた。

もちろん太田さんの大ファンだったわけではない。今までずっと気になり続けていたという訳でもない。宝塚歌劇のご出身だとはお亡くなりになった後の記事で知ったくらいだ。が、小さい頃の記憶には「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」や「ひみつのアッコちゃん」のスペースがあって、そこでは子供の頃に見たままで(多分)変わらないレオやサファイアやアッコちゃんの声が響いている。いや、ジュラルミンだのチンクだの大将だのの声も変わらず聞こえてくる。その声の人が亡くなったというのは、悲しいというよりも、どうも不思議な気分だ。

幸い今アマゾンプライムではリボンの騎士が配信されている。全部通してとなると時間的にきついかもしれないが、何話か目を通してみるか。ナイロン卿だの脳内の声を色々補正しておこう。

 太田さん、ご冥福をお祈りします。


2021年11月8日月曜日

旧暦10/5 インフルエンザ

 垂渓庵です。

今日、職場でインフルエンザの予防接種がある。なんか流行る流行ると言われているが、本当なのか。コロナ対策で換気やマスクの着用、手洗いが励行されている中で流行る理由がよく分からない。去年流行ってないので抗体がないのだと言われたりするようだが、ちょっと待ってくれと思う。毎年流行るタイプが異なるので予防接種は毎年受けないといけないのではなかったか。それ、前年の流行の有無に関係なくないか。

去年はコロナ対策のおかげでインフルエンザが流行らなかったのだとしたら、今年も同じことになるような気がするのだけれど。なのに今年はインフルエンザが流行するとはこれいかに。これはあれか、インフルエンザの予防接種を作る会社の陰謀か。バレンタインデーやハロウィンがお菓子屋さんの陰謀であるごとく。ほんまかいな。

旧暦10/4 前田五郎さん追悼

 垂渓庵です。

 前田五郎さんが亡くなったと三日ほど前に知った。言わずと知れたコメディNo.1のツッコミ役だ。追悼と銘打ちながらこういうことを言うのもどうかと思うが、実は五郎師匠の突っ込みがあまり得意ではない。特に子供の頃に見ていたコメディNo.1の漫才と比べると、コンビ解消前のものの方が五郎師匠の突っ込みがきつくなっていたように思う。と言ってもお二人がコンビを解散されて十年以上経つはずだ。またおれの子供の頃なんてそれより何十年遡るのか。あまりにも霞のような屁のようなおぼつかない記憶だからあてにはならないけれど。

 実は五郎師匠や坂田師匠の世代でいうと、Wヤングの方が好きだったりしたのだけれど。ま、それはしばらく措くとして、「アホの坂田」は嫌いではなかった。坂田利夫さんその人ではなく、「アホ、アホ、アホ のさ~かた」と「アホ」を連呼する曲の方ね。合唱調のところなどは今でもひょんなことで脳内で再生される。あれ、歌っているのは五郎師匠ではなかったか。何にしても冥福を祈ろう。合掌。

2021年11月5日金曜日

旧暦10/1 リハビリ句作

 垂渓庵です。

 久しぶりに句作してみた。本当に久しぶりなので作り方を忘れてしまった。2時間あまりの間にできたのが35句ほど。早吟というやつである。箸にも棒にもかからないものばかりだけれど、とりあえずこんな感じ。

お出合いあれくせものGが殿中に
駅員に息巻く女訛りある
飴色のひがんでいるはさくら色
ルーチンでないことをしてみようかな
ありがとう付箋に書こう丁寧に
非常ベル押したいそんな午後でした
泣きべそをかいたマリモを撫でてやる

だからどうしたという句ばっかりだ。いかぬいかぬ。今後もリハビリが必要だなあ。というか、落ち着いて句を作る時間を作れるかどうか。まだ無理なような気もするなあ。


2021年11月1日月曜日

旧暦9/27 栗?

 垂渓庵です。

気づけば木の葉の色が変わってきている。教科室と教室の間にある木もずいぶん葉を落とした。かっこよく季節の感懐などを書こうというわけではない。単に、教科室と教室の間の葉っぱがなくなると、随分見通しがよくなってしまって教科室が教室から丸見えになってしまうのが困るというだけのことだ。もちろん見られて困ることをやっているわけではない。ないが、そこはほれ、居眠りをしていたり、飯を食っていたり、はなをほじっていたり、いろいろするじゃないか。はなをほじるのは見られたら困るのか。

ところで、娘が栗拾いに行きたいという。遠足で落ちている栗の実を見かけたらしい。そんなに遠くではなかったので娘が言う場所に行ってみた。幸いというか何というか、今年の遠足先はけっこう近くだったのだ。で、行ってみてびっくり。栗の実などない。見事にない。ついでに栗の木もない。「なんですとぉ」と声を上げたりはしなかったが、狐につままれたような話である。しかし、娘はあったと言う。嘘を言っている訳ではなさそうだし、あたりをしばらく探してみてわかったこと。

・栗ではないが似ていないこともない木の実ならあった。

・以前植物園で見たなんとかフウという木の実に似ていた。

・それを踏まえてあたりの木を見渡してみると、なんとかフウに似た木が生えていた。

・その木は栗に似ていないこともない木の実をたくさんつけていた。

以上から推して娘はその木の実を栗の実と勘違いしたらしい。そもそも栗の旬は9月下旬らしい。なんというか無駄足に終わったようにも思うが、娘とあちこち出歩くのは楽しいので、まあよしとしておくか。 しかし、栗の実ぐらいは見分けがつくようにしてやらないといけないかな。今年は無理っぽいけど来年は実物を見に連れて行ってやろう。その頃娘がおれの相手をしてくれるなら、だけど。

2021年10月27日水曜日

旧暦9/22 何のため

垂渓庵です。

以前、とある依頼を受けて書いていたのとは違い、このブログは書くのも自由だし書かないのも自由だ。事実、この何年かはほとんど休止状態だった。それがここ一週間ほどほぼ毎日更新している。

ここらあたりの心の機微はどのようなものなのかと思う。単に時間があるからと言うので説明できない何かがあるような気もする。それについて思い出すのは先年退職された職場の先輩のK原さんのことだ。K原さんは大学、高校のころから川柳をやっておられる。しかし、わたしがこの職場に奉職したころはそんなことを全然知らなかった。一時期活動を休止されていたのだ。

休止の期間は、十数年に及ぶ。その間にK原さんのお子さんは成長し、独り立ちされている。どうもK原さんは子育てに手を取られる期間、川柳の活動を休止されていたっぽいのだ。自覚してのことかどうかはわからない。その間さんざん飲み歩いていた──それは私が証人だ。というか、一緒に飲み歩いていた張本人だ──から、時間がなかったわけではないのだろうが、川柳という一種の創作活動を子育ての合間に行うのは、難しかったのではないかと思う。 

このブログがほぼ休眠状態だったのもそんな関係があるようにも思う。吹けば飛ぶようなブログとはいえ、継続して書くにはある種浮世離れした時間が多少は必要となる。その時間というか余裕というか、そんなものをとれないままになっていた、というのがこのブログの休止の理由なのではないかと思ってみたりする。ま、いいわけだけど。

2021年10月26日火曜日

旧暦9/21 雨が降っている

垂渓庵です。

昨日は一日冷たい雨が降っていた。ところで雨粒はどんな形をしているのだろう。答えは肉まんに近い形らしい。ネットというのは便利なもので、ちょっと検索するだけですぐに答えが出てくる。 

ところで雨はイラストでどんな風に表現されているのだろうか。これも答えを確認するのは簡単で、「雨 イラスト」とでも入力して検索すればいい。ただ、こちらの答えはちょっと複雑で、水滴様のもの、線状のもの、点線状のもの、水滴が線状に連なったものなど、いくつかのタイプに分けることができる。が、上に書いた実際の雨粒の形が基本肉まん型らしいのに比して、ちょっと変わっているということができる。

古典では激しい雨のことを「車軸の雨」と表現することがある。車軸のように太く長い雨が降っていて、雨脚が強いということを言う言葉らしい。

雨粒は実は肉まん型だと言われても、感覚的には線状のイラストあるいは「車軸の雨」という表現の方が感覚的にぴったりくる場合があるように思う。激しい雨については、線状にというか棒状にというか、そんな風にある程度の長さを持ったものとして降るというイメージを抜き去りがたい。少なくとも私には。

これは降り来る雨粒を雨粒として捉えきれない我々の分解能の限界によるのかもしれないが、 そのように、我々が現実をそのまま切り取っていると思い込んでいる「事実」が、実は現実を正しく反映していないことがいくつもあるのだろうと思う。

ということを昨日の雨のつれづれに考えた。 暇人かおれは。

2021年10月25日月曜日

旧暦9/20 四季? 二季?

おとついは少しゆがんだ丸になった月がぽっかりと空に浮かんでいた。当然昨日も日中よく晴れていて、全然天気が崩れそうなようすもなかった。それなのに気づけば朝から雨模様だ。もう冷たい雨だ。傘も差さず雨に打たれたままだときっと風をひくことだろう。10月初旬は汗ばむような陽気だった。それが一挙に冷たい雨。感覚としては夏から秋を飛び越していきなり冬に突入する感じだ。

もうこの国に秋はなくなったのだろうか、これが地球温暖化の影響か、と思わなくもないが、考えてみると、旧暦で秋は一応3ヶ月あることになっているが、もともと秋が3ヶ月もあったようには思えない。秋と呼ぶのにふさわしいのは、本来もっと短い期間だったのではないか。

日本は実際は夏と冬の「二季の国」だと言ったのは誰だったか。感覚的にはその方がぴったりだったのかも知れない。地球温暖化の影響があるとしたら、その傾向がますますはっきりしてきたことにあるという気がする。昔の人のえらいところは、夏と冬のあわいに幻のように存在する秋──そしてたぶん春もだろう──を切り取ってそれを拡大鏡で引き延ばして一つの季節として特立したところにあると言えるのだと思う。

2021年10月22日金曜日

旧暦9/17 謡曲百番

垂渓庵です。

大正から昭和初年ごろにかけて刊行されていた「日本古典全集」という古典の古いシリーズがある。その一つが「謡曲百番」だ。版によって異なるけれど、4冊ないしは2冊にまとめられている。 

今どきの人の中で謡曲に親しむ人はそんなにいないんじゃないかと思うけれど、古典文学の全集などには必ず謡曲が収められている。ただでさえ我々に縁遠くなっている日本の古典の中でもさらにマイナーな謡曲である。その文学史的意義が我々にも分かるように微に入り細を穿つ注や口語訳が付けられるのが常だ。しかし、である。「日本古典全集」はそんなことはしない。擬光悦本とも言われる古活字の版本をそのまんま縮小して収めているのだ。昭和初年という刊行時期のせいもあるのだろうが、硬派というか何というか、男前なことだと思う。

日本古典全集には他にも「本草和名」や「教訓抄」など、もとの本がまんま収められている。あの頃の人は全員じゃないにしても、これ、読めたんだろうなあ。

2021年10月21日木曜日

旧暦9/16 ふたたび記憶

 垂渓庵です。

  ここ数年、教えている生徒の名前をちゃんと覚えていない。中学から持ち上がった生徒はさすがに覚えるけれど、一年ないしは二年しか教えない生徒の場合は全然だ。近いところのことを覚える記憶力が劣化しているので覚えようとしても覚えきれない可能性はあるが、そもそも覚える努力をしていない。

さすがにちょっといかがなものかとも思うので、先日の授業では「きみはだれ?」と生徒の名前を確認しながら発言を促してみた。ま、そんなことやっても覚えられはしないのだけれど、名前を知り対話することで、多少パーソナルな関係を切り結ぶことができて、こちらの記憶に何らかのひっかりはできるような気がする。生徒の側の反応もそれなりに悪くなかったように思う。なま暖かい笑いが起こっていたし。

けれども、だから覚えるようにしよう、とはならないところが人間の人間たるゆえんだなあと思うのである。

こうしてわたしの短期記憶の劣化はすすんでいく。

2021年10月20日水曜日

旧暦9/15 記憶

垂渓庵です。

特になんということもない場面がなぜだかわからないけれどいつまでも記憶に残っていることがある。ほんとうに何でもないシーンで、なぜ覚えているのか分からない。

もううん十年も前、高校生の頃のこと。わたしは電車通学をしていた。その帰り、夕方から夜にかけてのことだったと思う。最寄り駅の一つ手前の駅で電車が停まった。ごく普通に乗り降りの人があったはずだ。わたしは窓の外のスーパーマーケットの出入り口を見ていた。そこにはちょうどスーパーを出ようとしている人が一人いた。スーパーの照明が逆光のようになってその人影はシルエットのようになっていた。それだけだ。そこから何が起こったわけでも、その情景に特別な感懐を抱いたわけでもない。けれどもその情景がただただ頭に残って離れない。

記憶に残るにはそれだけの理由があると思うのだけれど。記憶とは時にこういういたずらをするものなのだろうか。


2021年10月18日月曜日

旧暦9/13 鶯童さんの本のこと

垂渓庵です。

とある方から段ボール箱で2箱分ほどの本をもらい受けた。不要の本が一切合切で2箱分あるというのではなく、不要になる蔵書から選ばせてもらった2箱だ。もともと欲しかった本が結構入っている。それはそれとして、たまたま本を選ばせてもらいに行っている時に目についたのが浪曲師の梅中軒鶯童さんの自伝だ。鶯童さんは、「紀文の船出」などを持ちネタにしている。喉の故障で大きな声は出なくなったらしいが、台詞回しや節回しに工夫を凝らし、聞くものを魅了する「鶯童節」を作り上げたと言われている。「紀文の船出」を聞いていると、思わず楽しくなって、船で旅に出たくなってくる。紀伊国屋文左衛門たちはミカンを積んでの嵐の中の決死の船出なんだけれど。

とは言ってもわたしも直接鶯童さんの高座を見たことはない。何せ彼は昭和59年に亡くなっている。今からざっと40年近くも前だ。当時私は大学生だったけれど、浪曲のろの字も目に入っていない頃で、鶯童さんの名前も当然知らなかった。当時浪曲師で知っていたのは「広沢虎造」か「広沢瓢右衛門」さんぐらいのものだ。「虎造」はさすがにビッグネームだし、「瓢右衛門」さんは、テレビ番組でちょっとブレイクしていて、浪曲師というよりも面白いおじいさんとして認識していた。私に浪曲体験はほとんどなかったのだ。しかし、その後いろいろあって浪曲を聞くようになり、鶯童さんのうまさを知ったというわけだ。

その鶯童さんの自伝だ。とても興味がある。で、ぜひにと譲り受けた訳だ。中身は鶯童さんの芸談や思い出話で、今は詳細は省く。今では想像すべくもない芸能の話が色々出てきてとても面白いので、興味のある人は大きい図書館で探してみてください。

というような本が他にもいくつもある。また追々紹介していくことに仕様。

2021年10月15日金曜日

旧暦9/10 探せない

 垂形案です。

自宅に置ききれない本は職場や実家に逃がしている。 ということはいつかどこかで書いた。そうしていると、いざ必要な本が見つからないという困ったことになってしまう、というのはどこかに書いたことがあったものか。

つい先日も、必要に迫られて萩原広道の源氏物語評釈という本を見ないといけなくなった。家には、ない。職場に置いた覚えもないのだけれど念のために探した。が、やはりない。となると実家に置いたままになっている段ボール箱のどれかに入っているのだろう。で、箱の外側に「和歌の注釈書」とか「国語学関係」とか大まかな内容を書いてあったのを頼りに、送ったままになっている本の段ボール箱を開けてみた。しかし、「源氏関係」とか「注釈書色々」とか書いてある箱を開けた限りでは、「源氏物語評釈」はなかった。

多分、スペースの関係で、「注釈書」などではない箱に入れたのだと思う。が、全然記憶がない。片っ端から箱を開けようかとも思ったが、時間がなかったので断念した。というわけで、まだ必要な本は行方不明のままだけれど、そうやって段ボール箱の山と取り組んでみると、「ゴーゴリ」だの「ラテンアメリカ」だの「タルコフスキー」だのと書いた箱があることに気づく。そうか。そういやその辺の本も送ってたのだった。またいつか暇な時に取り出して見ることにしようかと思い、その日は実家を後にした。

後で気づいたのだけれど、ゴーゴリやラテンアメリカやタルコフスキー関係の本など、そもそもおれはたくさん持ってはいない。ゴーゴリは河出書房版の全集ぐらい。ラテンアメリカはたぶん集英社版の「ラテンアメリカの文学」+幾ばくかの単行本だろう。タルコフスキーに至っては、二冊本の日記と「映像のポエジア」ぐらいなものだ。つまり、それらの箱にはその他の本が紛れ込んでいる可能性が高く、「源氏物語評釈」もそこにあったかもしれないのだ。 ばかなの、おれ。

さらにさらに。萩原広道の「源氏物語評釈」の本文は、奇特にもPDF化してネット上で無料で公開している方がおられた。それを見れば、とりあえずの問題は片付くのである。

そうではあるが、本のありかが分からないのは気持ち悪いので、また暇を見つけて実家に行って確認してみようと思う次第なのである。

2021年10月14日木曜日

旧暦9/9 アニメを考える

垂渓庵です。

秋スタートのアニメの新番組が始まっている。ということは、夏スタートのアニメの多くは終わったということだ。このワンクールごとにどんどん作品が入れ替わっていく形式にはやっぱり慣れない。サザエさんやドラえもんといった超長寿のお化け番組は別として、やっぱり1年からせめて半年ぐらいのサイクルで作品が入れ替わってほしいと思う。全体の構成云々というような難しい話からそう思うのではなくて、単に作品名や登場人物名が覚えられないのだ。いや、そもそもどんな話なのかもあやふやになってしまう。記憶力の劣化というやつである。

そのうち劣化したおれの頭の中では、たぶんあり得ない組み合わせの冒険者のパーティーや、登場人物や舞台設定その他がどこかおかしい作品が生み出されていくことだろう。登場人物が死ぬと人型の穴ぼこができる異世界の話や、スライム狩ってチートな力が身についた魔女が薬屋を営む話などなど、今でも油断するとあれはなんだっけと存在しないはずの作品について考えていないとは言い切れないのがつらいところだ。

しかし、である。12、3話で完結する作品を多く見続けていると、4クールの作品など長すぎて視聴する気にならないのも確かだ。1~2クールを定期的あるいは不定期に積み上げる作品が望ましいと思わなくもないが、上記のおれの記憶の劣化が壁になる。外部記憶装置がほしくなるのはこんな時だ。そういや、外部記憶も含めて全身を義体化した消防士の主人公が活躍する作品があったなあ。あれはなんだっけ。

2021年9月30日木曜日

旧暦8/24 新総裁誕生

 垂渓庵です。

 アニメを見たり国文学関係の本を眺めたり、世の中の動きとあまり関係ないところで時間を費やしているうちに、気づけば自民党の総裁が岸田さんに変わっている。写真を見る限り、岸田さんの顔が以前より大きく平たくなっている気がしないでもないが、石破さんに近づいていっている気がしないでもないが、コロナ対策でえらいこと不評だった菅さんからの交代は、世の中的には歓迎されているのではなかろうかと思う。

 わたしは岸田さんについてはほとんど知るところがないのではっきりと論評することはできないが、河野さんや高市さん、野田さんの処遇を見れば岸田内閣が強権的な政治を行うのか、そうではなく党内の批判的な勢力も取り込んで、コロナ対策や経済対策に粘り強く取り組んでいこうとしているのかが分かるのではないかと思う。

  安倍さんや菅さんの石破外しは見ていて気持ちのいいものではなかった。そしてそれが安倍さんや菅さんの政治姿勢を表していたと思うのだ。石破さんの顔があまり気持ちいくないということはあるにしても、である。

 というようなことを書くのがわたしに似合っていないことは百も承知だ。でも、ブログの本格的な再開に向けて多少は保守点検しようかと思った時、これぐらいしか思い浮かばなかったのだ。池袋の暴走事故の被告の話や幼児に熱湯をかけて殺したやつの話は、あまりにも悲惨すぎるし、はらわたが煮えくり返る。こんなやつは死刑でいいという乱暴なことしか欠けない気がしたので避けたのである。ああ、疲れた。 

 しかし、気づけば石○さんの顔が気持ち悪いとしか言っていないような気がするな、このブログ。

2021年8月25日水曜日

旧暦7/18 近況そして合掌

垂渓庵です。

先日コロナのワクチンも2回目を打ち終わって、今のところ元気にやってます。ところで、2019年以降長らく中断していたこのブログを一度再開しようとしたことがある。次のような書き出しで始まる。

以下、引用

 

 何日ぶりの更新か、思い出すすべもない。 そして再開早々、コロナを話題とせざるを得ない。すこぶる残念だ。
あれよあれよという間に休校措置がとられ、あれよあれよという間に3か月近くが過ぎた。なんということだろう。日常がこんなに簡単に崩れるなんて。というか、新型コロナのいる毎日が日常になりつつある。これは、あれだ。平安時代ならきっと御霊信仰の対象になったことだろう。


 
以上、引用終わり。

この記事を書こうと試みた時からもすでに1年以上経つ。ブログの記録では、2020年5月18日に書こうとしたようだ。

あの頃から見てコロナの状況は相変わらずというか、かえってひどくなっている。感染者数は桁違い。学校こそ休校にはなってないものの、相変わらずの自粛で、学校行事は規模縮小か延期か中止。このまま感染者数を抑え込めなければ、またぞろ休校ということにもなりかねない。なんということか。

 という暗い話題はこれぐらいにしよう。あとは近況報告だ。コロナの醸し出すえもいわれぬ圧迫感の中、わたしはすこぶるのんきな毎日を送っている。

 テレビを見ないと決めたので、オリンピックについてもニュースサイトのヘッドラインを読むぐらいで、開会式、閉会式も見ていない。当然コロナ関連のニュースも同じ。

 本は読んでいる。いま読んでいる本は、佐竹昭広、片桐洋一、今西裕一郎などの錚々たる研究者の研究書だ。あと、それにI先生、M先生の本も入る。どれも今の時代に合ってはいないような気もしなくはなくなくないけど。あれ。

アニメも見ている。なぜならア○ゾンプライムで見られるから。テレビを見ないと時間があるから。有料チャンネルも利用しつつ過去作品にも手を伸ばしてみたり。今見ているのは『精霊幻想記』『転スラ』『赤髪の白雪姫』など。あと『ボトムズ』をちびちびと見返そうと思う。

と書いていて俳優の二瓶正也さんがお亡くなりになったことを知る。ウルトラマンのイデ隊員と言えば通りがいいだろうか。お調子者ではあるが、ジャミラやピグモンの死を心から傷むイデ隊員、ブルトンの攻撃にうろたえるおちゃめなイデ隊員。猪突猛進のアラシ隊員との好対照が印象的だった。一度見たら忘れられないウルトラ俳優の一人と言えるだろう。謹んで哀悼の意を表します。ああ、追悼の意味を込めて『ウルトラマン』を見直そう。

コロナはいてもコロナ以前と変わらない日常を生きられる。アニメを見たり本を読んだりしているわたしがいい見本だ。みなさんもいろんな状況に負けないでください。さて、この記事、ブログ再開ののろしとなるか、あだ花として消えるか、どっちだろう。