垂渓庵です。
昨日の大隈重信の乳母車姿だが、そもそも本当に大隈は乳母車に乗っていたのだろうか。金子堅太郎の思い違いということはないのだろうか。大隈の姿を見かけたのと、ボストンで乳母車を目にしたのとがずいぶん離れた時点での出来事なら、その線も出てくるのではないかという気もする。
気になるので、少し調べてみた。
ウィキペディアによると、金子堅太郎の「東京留学」は明治三年のこと。「アメリカ留学」は、明治四年から明治十一年にかけてのことだ。
金子の「留学」は、途中まで岩倉具視の使節団に随行する形で行われている。あの木戸孝允や大久保利通や伊藤博文も加わった大使節団だ。
他サイトによれば、ニューヨークからボストンに入ったのは明治五年のことのようだ。金子は「大隈の乳母車姿」を見かけて二年足らずの時を経て、ボストンで乳母車を見かけたと考えられる。その際に反射的に思い出したぐらいだから、大隈の姿はよほど印象に残っていたのだろう。
と考えると、金子の思い違
いの線は薄いのではないか。大隈は、ほんとうに乳母車に乗っていたと考える以外なさそうだ。ちょっと情けなくなくなくない。あれ。
大隈が片足を失ったのは、馬車に爆弾を投げつけられたからだった。まさかその時の馬車は乳母車じゃなかったと思うけれど、どうも彼は馬車に縁のある人みたいだ。
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