2012年6月1日金曜日

旧暦4/12 昼夜兼好

垂渓庵です。

『徒然草』を読んでいくと、前後で矛盾していると思えることがけっこうたくさん書かれていることに気づく。たとえば、「子供はない方がいい」(6段)と「子供がないと万のあわれは分からない」(142段)。また、「酒を他人に勧めると罰が当た る」と酒はよくない的なことを言っているかと思うと、「風流の酒はいい」と言ってみたり(175段)などなど。活字本の解説でもたいていその点に触れら れているはずだ。


今週記してきたように、人間の常として、前後で矛盾しているかに思える言動は避けられない。というよりも、それが人間だと考えることができる。そういう意味では、兼好が述べているのはその時々の真実であって、普遍妥当的な真理ではない、と見ることができるだろう。


なぜ兼好はそんな書き方をしたのだろう。自分の書いたものを読み返せば、「矛盾」が多いことに気づいたはずだ。気にくわないと思ったら、書き直すこともできる。が、結局兼好はそうしなかった。兼好はこの「矛盾」の多さをよしとしたことになる。それはなぜか。一言で言うなら、矛盾に満ちている人間の日常を、軽く揶揄しつつも肯定していたから、ということになるだろうか。


そもそも徒然草は、「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心に浮かびゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつ」けた、という建前で書かれた。矛盾に満ちているかに見える人間の「心に浮かびゆくよしなしごと」は、当然前後で矛盾しているかに見えるはずだ。もちろん、その時々の真実なのだけれど。

それを「そこはかとなく書きつ」けたとしたら、『ボートの三人男』の蒸気船のエピソードのように、あるいは、正反対の方向を向いていることわざのセットのように、矛盾しあうエピソードがそこここに散在することになるだろう。「つれづれなるままに、日暮らし硯に向か」っているのだから、入念にそんな工夫をするのは造作もない。

兼好は、矛盾に満ちているかに見える人間のありようを面白いと思ったからこそ、現在見る徒然草のように、そこここに矛盾しあうエピソードをまき散らしたのだと思う。もしも、そんな人間に絶望したり、告発したりしようとしたのなら、徒然草全体はあんな風に明るいトーンに包まれていないはずだ。

そう考えると、「つれづれなるままに~」は、兼好が人間のありようを活写することの宣言だととることができるだろう。きっと兼好は、人間が大好きだったんじゃないか。

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