垂渓庵です。
最近物忘れが目立つようになってきた気がする。書類の作成や仕事の予定などをしばしば忘れるのだ。
もともと書類仕事は好きではないので後回しにしがちで、そのまま忘却の淵に沈むこともないではなかった。けれど、それはやはりレアなケースだったように思う。それが今では、後回しにするまでもなく忘れている。いかぬいかぬと反省するが、忘れるのは不可抗力のような気もするので、反省しても仕方がないのではないかと思ってみたりもする。
仕事の予定にしても同じようなことが言える。もともと教材研究などは別として、さまざまな雑務やそれに伴う出張などは好きではないので後回しにしがちで、以下同文。
もちろん、直接生徒の進路などに関わる書類作成や出張などはその限りではない。一大発心して早く片付けることにしている。生徒が困ったりしては、やはりよくないし。
が、そういう、どちらかというと後ろ向きに向きあわざるを得ない──変な表現だけれど──案件だけではなく、そりゃあんまりだというようなことも忘れてしまうことが増えているのだ。
どういう拍子にか、「生の飛躍」ということばが頭に浮かんだ。当然誰が言ったかを意識する。が、ベルクソンが出てこない。家の本棚のあのあたりに本があるというところまで思い出しても、やはり出てこない。結局、ウエーバーだのディルタイだのという名前が出てくるだけだった。
ウエーバーは、ベルクソンと名前が似ている。少なくともわたしの中ではそうなっている。ディルタイは、たぶん「生の飛躍」と「生の哲学」との類似から出てきたのだろう。どっちっも似てない、と言われると困るのだけれど。そうだ、ディルタイつながりでデュルケムも頭に浮かんだのだった。大丈夫か、おれ。
別の機会には、キリスト教の異端について漫然と考えていた。で、デミウルゴスだのなんだのと考えていて、あれは何主義だったっけと考えて、どうしても出てこなかった。ワルド派だの、ネストリウスだの、アリウスだの、ヘルメス文書だの、死海写本だの、余計なことは思い浮かぶのに、思い出したいほにゃらら主義のほにゃららが出てこない。結局あきらめて検索をかけて、やっと、そうそうグノーシスだ、と合点がいった。
哲学や宗教がわたしにとって付け焼き刃的なものだということなのだろうか。ちょっと悲しい。脳の配線がプチプチと切れていっているような気がしなくもなくなくないのはもっと悲しい。あれ。
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