2013年9月30日月曜日

旧暦8/26 大道法律家

垂渓庵です。

最近、それなりに「耽読翫市」している記事が続いている。ちょっと発憤した結果だ。というのは嘘で、仕事部屋で周りを見回して、目についた本について書いているというのが実情だ。そのつもりになれば、ネタはそこらに転がっていると最近気付いた。

kindleネタは、そうはいかない。何しろ、掌編も中編も長編も、ついでに随筆も読者アンケートへの回答っぽいのも、全部一緒くたになっているし、いわゆるフォルダにあたるものは一階層しか作れず、気軽に眺め回すなんてことがしにくいからだ。もちろん、有料の電子書籍を買わずに、どこまでも無料本の範囲内で済ませようというけちくさい根性だからそうなるわけだけれど、フォルダを何階層か作れる仕様にしていない点に、有料本へ誘導しようというamazonの意図が見え隠れする。

でも、それはそれとして、今回はkindleネタだ。たまたま面白い素材が見つかったので、早速とりあげようと思う。

少し前に書いたと思うけれど、古川ロッパの兄は実は推理小説作家だった。浜尾四郎といい、検察検事で後に貴族院議員になった人だ。活動期間は十年にも満たず、四十歳を目前にして脳溢血で死んでしまった。戦前に本格的な探偵小説を書いた人として推理小説業界では評価の高い人のようだけれど、今はそれについては深くは触れない。というか、触れる知識がない。

実際に作品をいくつか読んだ限りでは、確かに妙なけれん味もなく、よくできていると思う。ただ、大まかに言って、作品のバリエーションがそれほど多くなく、人が人を裁くことにまつわる問題に収斂する傾向がある。もっと長生きしていろいろなものを書いてほしかった人の一人だ。

さて、そんな彼の小説に大道法律家が出て来る。大道芸人の大道だ。

2013年9月27日金曜日

旧暦8/23 百閒と夢袋

垂渓庵です。

先日、目白三平こと中村武志さんの文章の奇妙さに触れた。内田百閒の弟子にふさわしい妙なこだわりの持ち主で、サラリーマン川柳のごときサラリーマン随筆の書き手とはちょっと違うみたいなのだ。

その後、『実説内田百閒』(雑賀進著)を読んでいて、二人にまつわるエピソードを見つけた。というか、以前読んだのに完全に忘れていた。脳の劣化というやつだ。同書の奥付によれば、雑賀さんは、旧鉄道省鉄道局で勤め上げた人らしい。

阿房列車の相棒平山三郎さんといい、中村武志さんといい、百閒の周りには鉄分の多い人がやたらにいる気がするが、それはさておき。

2013年9月25日水曜日

旧暦8/21 ダブリン新旧

垂渓庵です。

『ユリシーズのダブリン』(写真・松永学 編訳・柳瀬尚紀)という本がある。刊記を見ると、柳瀬さんの『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス)訳が出版されだした頃に出ている。出版社も同じなので、ユリシーズブームを狙ったものと思われる。

『ユリシーズ』は、極めて乱暴にまとめると、とある一日、レオポルド・ブルームとスティーブン・ディーダラスのそれぞれがダブリンを彷徨するさまを、さまざまな文体的実験を行いつつ描いたものだ。高校生の頃に、無理矢理丸谷才一さんたちの翻訳で読み通したものの、その後ほとんど手に取らなかった。もはや内容は忘却の彼方で、これ以上詳しい説明なんてできない。

その程度の読者にかかわらず、たまたま古本屋さんで『ユリシーズのダブリン』を見かけて、ぱらぱらと見てみた。柳瀬さんの試訳を読んでも内容は全く思い出せなかったけれど、写真が面白いので買ってみた。

2013年9月24日火曜日

旧暦8/20 連休を考える

垂渓庵です。

何年前からか、いくつかの休日が暦次第で動くようになり、日月の連休が多くなった。連休効果でレジャーなどの消費を狙っての法律改正だったか。

おかげで、月曜日の授業がやたらにつぶれるようになった。小学校などは、臨時に時間割を振り分けて授業時間の均等化をはかっているようだけれど、非常勤講師の割合が多くなる高校などでは、それも難しいと思われる。実際、うちの職場も小学校ほど臨機応変に各曜日の授業を入れ換えたりはできない。

2013年9月20日金曜日

旧暦8/16 百鬼園写真帖

垂渓庵です。

『百鬼園写真帖』(旺文社刊)は、内田百閒にまつわる写真を集め、百閒ゆかりの人たちの文章を載せる。初刷発行は1984年。まだ旺文社が文庫を持っており、内田百閒の作品を多数刊行していた頃のことだ。

当時、内田百閒の作品を手軽に読もうと思うと、旺文社文庫ぐらいしかなかったのではないか。講談社版の全集もあったけれど、持ち重りがする。今はなき六興出版からも作品集や随筆が何冊か出版されていたと思うが、あまり家の近所の本屋さんにはなかった。

そんなこんなで、お年玉などを注ぎ込んで大枚はたいて内田百閒全集を買うまで、わたしは旺文社文庫にお世話になっていた。その後、福武書店から講談社版に漏れた作品も含めた全集が出、福武文庫からも作品が陸続と刊行され、後のちくま文庫の内田百閒集成につながっていくわけだけれど、わたしの内田百閒体験の最初のスタートは旺文社文庫だ。

2013年9月18日水曜日

旧暦8/14 エルネスト・サバトと埴谷雄高

垂渓庵です。

一時期、ラテンアメリカの小説を読んでいた。きっかけは、集英社から出版されていた『ラテンアメリカの文学』シリーズ全18冊だ。いや、さらにそのきっかけをたどると、筒井康隆さんや丸谷才一さんの書評にたどりつく。

という話はさておき、その『ラテンアメリカの文学』シリーズに、「英雄たちと墓」というエルネスト・サバトの小説が入っている。狂気に彩られたところのある濃密な小説だ。興味があれば図書館などで探してみて下さい。ちょっと長いけれど。

2013年9月16日月曜日

旧暦8/12 目白三平の分身はどこに

垂渓庵です。

目白三平もので知られる中村武志さんは、東京間借人協会会長でもあった。若い頃、内田百閒の『百鬼園随筆』を知るに及んで、それまで出入りしていた安倍能成を介して面会に行った人だ。以後、親しく出入りしたのではなかったか。

さて、その目白三平シリーズだけれども、わたしはなんとなく身辺雑記というか、サラリーマン随筆──そんなジャンルがあるのか知らないけれど──的なものだと思っていた。

2013年9月14日土曜日

旧暦8/10 連想 ボイジャー パイオニア

垂渓庵です。

小学校から中学にかけて星が好きでよく望遠鏡を覗いていた。ちょうどそのころだった。ボイジャーが打ち上げられたのは。

先日、ボイジャー1号が太陽系を離れて恒星間宇宙に出たというニュースに接した。望遠鏡を覗かなくなって久しいけれど、ちょっと感慨が湧かなくもない。当時の天文ガイドなどには、打ち上げ時点での予定というか、行程表というか、そんなのが載っていたような気もする。それとのずれがあるのかないのか、ちょっと興味がある。

2013年9月11日水曜日

旧暦8/7 作家の旬

垂渓庵です。

先日卒業生から残暑見舞いというか、葉書がきた。鳥取に行った生徒である。元気にやっているようで、そのうち鳥取の梨を送りますとあった。自由研究をずっとやっていて、その関係で行きたいと思い続けていた学科に行けた子だ。きっと熱心に勉強に励んでいることだろう。がんばってほしいと思う。

梨は今がちょうど旬だ。わたしぐらいの世代だと、たぶん鳥取と言えば梨、梨と言えば二十世紀梨という回路が出来上がっていると思うが、最近の梨事情はもっと複雑なもののようで、おつかいでスーパーに行くと、以前は聞いたこともない品種のものがいろいろ出回っている。どうもそれぞれに収穫時期も微妙に違うようだ。

2013年9月10日火曜日

旧暦8/6 武蔵国──人国記より

垂渓庵です。

東京でオリンピックが開かれることに決まった。福島第一原発事故の収束もおぼつかない状況下でやっちゃっていいのか、という気がしないでもないが、開かれる以上は、選手の方々にはぜひがんばってもらいたい。

というわけで、江戸のケンミンSHOW第一回は、オリンピック招致にちなんで、武蔵国だ。ちなみに、第一回近代オリンピックはアテネで開かれた。

2013年9月6日金曜日

旧暦8/2 江戸のケンミンSHOW──前説

垂渓庵です。

最近テレビをあまり見ていない。昔は見過ぎで目というか頭が痛くなるまで見ることもあったのだけれど。「おくどはん」なんてドラマまで見ていたのだけれど。

それで思い出した。どうして「おくどはん」を見ようと思ったのか理由が分かった。

どうも気になってウィキペディアの「おくどはん」の項目を見ていたら、前番組が「藤山寛美3600秒」だったのだ。

どうやら、「藤山寛美3600秒」を見ていた流れで見ることになったもののようだ。なぜ「藤山寛美3600秒」を見ていたのかについては、面倒なので省略。要は松竹新喜劇が好きだったってことです。

2013年9月4日水曜日

旧暦7/29 呼吸しているのか

垂渓庵です。

以前から気になっているものがある。「呼吸チョコ」だ。全国展開しているのか、それとも関西ローカルの商品なのかよく知らないけれど、大阪近辺では割と知られている商品だと思う。

この呼吸チョコ、大阪のマルシゲという食品販売会社の商品らしい。マルシゲはお菓子などの量販店みたいなのを経営している会社で、梅田地下街の一角にも店がある。ローカルな話題になって申し訳ないけれど、地下鉄梅田駅を出てwhityうめだを東に向かい、曾根崎警察署の角を通り過ぎて右手にある。ここに極めて気になる物件があるのだ。

2013年9月2日月曜日

旧暦7/27 おくどはんと組紐

垂渓庵です。

この表題だけで浅茅陽子を思い浮かべることの出来た人は、無駄にテレビで貴重な時間を消費してきた人だ。