2013年9月16日月曜日

旧暦8/12 目白三平の分身はどこに

垂渓庵です。

目白三平もので知られる中村武志さんは、東京間借人協会会長でもあった。若い頃、内田百閒の『百鬼園随筆』を知るに及んで、それまで出入りしていた安倍能成を介して面会に行った人だ。以後、親しく出入りしたのではなかったか。

さて、その目白三平シリーズだけれども、わたしはなんとなく身辺雑記というか、サラリーマン随筆──そんなジャンルがあるのか知らないけれど──的なものだと思っていた。


それは必ずしも完全な間違いだとは言わないけれど、「分身を追う」を読んで、ちょっと違うことが分かった。いや、目白三平ものががどうこうというだけではなく、中村武志さん、ちょっと変なのだ。

「分身を追う」は、トイレを水洗にする話から始まる。奥さんを納得させたり、受注を巡る水道会社同士の争いがあったりなどするものの、それに終始するのなら、まあ普通の随筆だ。

水洗化そのものの話は、実は「分身を追う」導入に過ぎない。目白=中村さんは水洗トイレを導入してふと思う。うちの大や小は、どこをどう通っていってどうなるんだろう、と。そして実際に東京都水道局下水道部を訪ねる。そして下水の流路を聞いて、実際にその流路をたどるのだ。分身の流れにあわせて。

途中、コーヒー屋さんで分身を追加したりなどしつつ、とうとう芝浦下水処理場までたどりつく。そして見学を願い出て、沈殿処理施設などを見つつ、どうにも奇妙な感慨を抱くのだ。そのあたりは実際に文章を読んでもらうといいと思う。

で、最終的に、処理施設から出てくる水のしぶきを浴びつつ心和むのである。

なんなんだろう、この逸脱感は。「銀杏探し」では、自分の家の銀杏をならせてくれる雄の銀杏を求めて探索行に出たりもする。開花期の風向を確認して、風上に遡るのである。気になることはあくまでも追究するというわけだ。が、その動機は、雄木がないとぎんなんはならないのだから、雄木の持ち主にお礼をしなきゃいけない、だ。なんというか、つきつめていく物事の方向性を間違えてはいないか。お礼をしてもいいけれど、わざわざ探索しないと見つからない木の持ち主へのお礼なんて、普通は気にするものだろうか。

この逸脱ぶりは、どうも内田百閒に通じるものがあるあるように思える。ご本人は不肖の弟子であるかのように謙遜なさっているが、やはり百閒の弟子だ。十分似ている。

上記の二編は、『内田百閒と私』(岩波書店 同時代ライブラリー)に入っている。

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