意外なつながりシリーズの第三弾だ。
またまたマイナーどころのつながりなので、大方の人にとっては、きわめてどうでもいいことかもしれない。
澤木興道という禅僧がいた。もちろん、現代の話だ。曹洞宗の僧侶で、1965年になくなっている。読書好きな人なら、講談社学術文庫の『澤木興道聞き書き』を読んだことがあるかもしれない。まことに痛快なお坊さんで、面白いエピソードがたくさんある。『聞き書き』で読むことができるので、ぜひ目を通してほしいと思う。
たまたま『澤木興道 この古心の人』(田中忠雄著 大法輪閣刊)という分厚い上下巻の伝記を見つけて、読んでみた。正確には下巻の途中まで読んでいる。
澤木興道は一時期熊本の大慈寺におり、旧制五高の学生達を参禅させていた、ということは「聞き書き」にも書かれていたし、その折の愉快なエピソードも紹介されていた。が、「古心の人」には、興味深い記述が見られた。以下、少し引用してみよう。
五高の教授にも、瑞邦館以後熱心に聴講し座禅する学者がいた。中でも沢瀉久孝(おもだかひさたか 垂渓庵注)は大正八年に国語の教授として赴任し、月々の五高仏教界の講演を聞いて深く和尚に傾倒し、これぞわが人生の師と仰ぐようになり、生涯この師弟の交流は続いた。すでに熊本にいる三年間に、自宅に参禅会を作って集まる者と一緒に興道和尚の指導を受けたのである。後の京都帝大教授、『万葉集』研究の権威として世に「沢瀉万葉」と称される業績のあるこの人は、興道より十歳年少だったから初めて会った大正八年は興道四十歳、沢瀉三十歳である。沢瀉久孝といえばわたしの先生の先生だ。『万葉集注釈』には大学時代何度もお世話になった。万葉学の大家で、一生勉強を通した人というイメージだ。万葉集を専門としなかったわたしも、敬意を表する意味で『注釈』を持っている。本棚の肥やしになってしまっているけれど。
それにしても、熱心に参禅していたなんて知らなかったし、まして澤木興道に師事していたなんて、えらいこと意外だ。あまりにも驚いたので、この二人の関係に驚きましたとお手紙を差し上げたぐらいだ。沢瀉門下の方達にとっては当然周知のことだったようだ。二人の関係に関わる参考文献も教えていただいたので、読んでみなければと思っている。
意外な関係はまだまだありそうだ。
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