垂渓庵です。
これは2009年1月に公開した。これでようやっとこのシリーズも終わりだ。分量はそれほど多くはないが、書くのに苦労した。無理に今の世相を斬ろうと考えたのが間違いだったか。やはり身の丈に合ったことをしないといけないと肝に銘じた次第だ。それにしても、この記事を書いたころは、世の中アイフォンだのアンドロイドだの言っちゃいなかったんじゃないか。ますます変化のスピードが加速している感じだ。
以下本文
今回がこのシリーズの最終回になるように努力しようと決意している垂渓庵です。
携帯電話は前の二つと比べると、最も遅く登場しました。
もちろん、わたしの身近には、です。
ポケットにも収まる端末を周りの人間が使い出したのは、今の職場に来てからのこと。
かれこれ十二、三年前か。
いや、もう少し前かもしれないけれど、二十年前ってことはありません。
その携帯電話。
今さらわたしが言うまでもなく、極めて便利です。
わたしのような職種の者でも、もしもこの世から携帯電話がなくなってしまったら、いささか不便さを感じます。
たとえば共働きの家庭に連絡を取りたい場合。
生徒の急な発熱や怪我、生徒指導上の問題などなどが生じた場合、行事で生徒たちが班高津をする場合などなどですね。
従来なら、緊急連絡先か保護者の職場へ電話か、連絡が入るのを待つってことになります。
しかし、思うように連絡がつかない場合が往々にしてあります。
が、携帯電話の番号さえわかっていれば、ほぼ確実に連絡をとることができます。
原則携帯電話を禁止している学校の場合は、生徒にこの手はちょっと使いにくいですが。
また、携帯電話の持ち込みが許可されている学校であっても、何かとトラブルが起こる可能性があるので、携帯での応対は生徒指導上は避けた方がよいと言われることが多いのです。
でも、とにかく急いで生徒に連絡しなければならないときなんか、とても便利なんですよね。
というわけで、緊急時に限定して使うという形で、わたしは生徒への連絡に携帯電話を用いることがあります。
とまあ、わたしのような職種でも結構便利に使っているわけです。
生徒にとっても便利でないはずがありません。
わたしなどよりも自在に使いこなしています。
多くの場合は通話よりもインターネットの端末として。
メールやプロフ、モバゲーなどなどですね。
これらがイジメや犯罪の温床になってしまっている一面があるのは周知の通りです。
が、問題はそれだけに限りません。
彼らのメールの利用の仕方を見ていると、擬似的な会話をしているかのようです。
ひっきりなしにメールのやりとりをするのですね。
チャットと同じようなものといいますか。
しかし、メールやチャットは会話とは大きく異なります。
口調や表情などがすっぽりと抜け落ちているからです。
どうしても相手の感情が見えないことばのやりとりになってしまうのです。
そうすると、思わぬ誤解も生じます。
ネット上の掲示板での過激なやりとりも、元をただせばこの擬似会話が生み出す誤解がもとになっていることがあります。
ニュアンスなどを欠いた文字言語での擬似的な会話は齟齬を来すことが多いってことですね。
絵文字、顔文字は、それを補うために発達したとも考えられますが、それにも自ずから限界があります。
こんなツールで日常的にお互いにコミュニケーションを取り合っている子どもたち。
何らかの影響があって当然、という気もします。
さて、これまでとりあげてきたゲーム、コンビニ、携帯電話の共通点は何でしょう。
恐らく他者との生身のコミュニケーションのライブ感をいささかそいでしまう点にあります。
わたしはそれに居心地の悪い違和感を感じますが、これからは違和感なんて感じないという人が多くなっていくでしょう。
いや、すでにそういう人がたくさんいるのではないでしょうか。
気づかぬうちに、わたしたちの生活は、かつてのわたしたちの生活から遠いところまで来てしまっているのです。
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