2012年4月7日土曜日

旧暦3/17 再掲 ハーディと源氏物語

垂渓庵です。

これは2008年9月に公開した。最初に一川誠の番宣をしていたのだけれど、今回は省略した。本文が妙な出だしになっているのはそういうわけだ。
さて、この記事は以前に紹介した「ヴォネガットと斎藤緑雨」に通じるものがあるのではないかと思う。割と自信を持っているネタの一つだ。源氏物語を授業で取り上げる際にも触れたいところだけれど、ハーディの存在自体を知らない生徒に説明するのが結構難しい。というわけで、残念ながら授業中に話すことはほとんどない。年度初めで忙しくなってきた。とりあえず今日の更新はこの一本のみ。

以下本文

垂渓庵です。

さてさて、本題に戻りましょう。どうもここんとこ耽読も翫市もしていないっぽい話が続いてしまいました。またもや看板に偽りありってことになってます。ここらで本のネタをひとつ。

以前から気になっているのですが、19世紀イギリスの小説家トマス・ハーディの小説は昨今どれぐらい読まれているのでしょうか。そう、「テス」や「ジュード」の作者のハーディです。ハイディハイディフレハイディホウの○大ハンバーグじゃありません。

……。ええと、ちょっと気になったので検索をかけてみました。結果はこんな感じです。
この中には英語の教科書版がかなり含まれているようです。英語学習の教材としては別として、今ではあまり読まれなくなっているということでしょうか。かく言うわたしもハーディの小説は短編集をいくつか読んだだけ。実は「テス」も「ジュード」も読んでません。


わたしがハーディの本を手にとったきっかけは、古本屋さんで絶版・品切れになった岩波文庫を物色していた時に、たまたま「幻想を追ふ女」があったことです。今からかれこれ二十年近く前の話です。

あの時は「幻想」という文字に惹かれて手にとったのでした。ゴーゴリの「ディカーニカ近郷夜話」や泉鏡花の「天守物語」「高野聖」などを読んで幻想づいていた頃のことです。「冥途」や「旅順入城式」を含めて、内田百閒の著作を中学・高校時代からこよなく愛していたのがその淵源だったのでしょう。もともとSFチックな小説が好きでしたから、幻想や空想を翫ぶ小説を好む素地もあったのだと思います。

とにかく、「幻想」という文字が表題に入っているからといういい加減な動機でハーディの小説を読み出したわけです。が、これがなかなか面白いものでした。よく言われるように暗い作品が多いものの、話がよく練られていて、人物の心情描写も丁寧です。わたしが読んだ短編集は出版時期が古かったので訳文が適度に古風で、作品の雰囲気にもピッタリです。本が茶色に変色しているのもこれまたいい感じでした。

さて、そのハーディに「魔女の呪い」というおどろおどろしげな題名の短編があります。角川文庫の同名の短編集に収められています。副題が「萎えた腕」。 「魔女の呪い」に「萎えた腕」。いよいよもっていわくありげじゃありませんか。お話の前半のあらすじは次のようなものです。

今は乳搾りをして息子と二人細々と生活している女がいた。
女はかつて地主の裕福な男とつきあっていた。
息子は彼との間にできた子供である。
その男が若く美しい新婚の妻を伴って屋敷にやってきた。
女は息子や近所の人から聞いた噂をもとに新妻の姿を想像した。
と、ある夜女は新妻らしき姿をした得体の知れない者に襲われる悪夢を見る。
女は悪夢の中で思わず相手の腕を強くつかむ。
ひょんなことから新妻と顔を合わせた女は
気だてのよい新妻に好感を持つ。
新妻と知り合って二、三週間後、
女は新妻の腕に指の跡のような痣ができていることを知る。
新妻の腕の痣が少しずつひどくなり
その幸せに徐々に影がさしてゆく…。

これで話の半分くらいでしょうか。続きを書くのはやめておきます。登場人物の運命が交錯し合い、考え込まざるを得ない形で話が終わるとだけ言っておきましょう。

さて、上のあらすじのコアになるアイデアは、やはり自分では意識していないところで生き霊のようなものとなって恋のライバルをそれと意識せずに呪ってしまうってところでしょう。女はその後自分のしでかしたらしいことを知って懊悩します。が、いったん効力を発揮してしまった呪いは容易なことでは消えません。

ここまで書けば、表題の意味がぴんとくる人も多いことでしょう。そう、生き霊と言えば源氏物語の六条の御息所です。彼女は光源氏への嫉妬から生き霊となって夕顔や葵の上などに取り憑いたのでした。

子細に見ると呪い殺す状況が「魔女の呪い」と六条の御息所では違っています。が、嫉妬や恨みによって男の相手の女性に取り憑く点は共通しています。また、自らは取り憑いたり取り殺したりしようと思っているわけではないという点も。そしてそのようなことをしでかしてしまったことを後に知り、自分を責めるとこ ろも同じです。

もちろん両者に直接の影響関係などありません。偶然の一致でしょう。しかし、その偶然の一致が源氏物語とハーディの小説の間に見られるのが面白いところだと思います。源氏物語は、紫式部が当時の女性のあり方を本源的に掘り下げて女性にとっての幸せとは何かを繰り返し繰り返し考えている作品であるということ ができます。

ハーディは男性ですが、男性への従属/男性からの自立の間で揺れる女性のあり方をかなり意識的に書いている作家だと言っていいかと思います。ハーディの場合は、読者として想定される女性の目を意識したのだということなのかもしれませんが、結果的には彼も女性の幸せとは何かを考えさせる作品を多く残していま す。

わたしは、両者の女性に対する視線の共通性が、男性に従属せざるを得ない女性の無意識的な形での男性への抗議行動とも言える生き霊を生み出した、と言えるのではないかと思うのです。両者の作品を隣り合わせに置くことでそれぞれの作品に対する理解が深まるのではないか、とわたしは思っています。

先ほどの検索結果を見る限りでは、「ジュード」と「テス」はまだ文庫本で読めるようです。これらの長編ではたして女性はどのように描かれているのでしょうか。近いうちに確かめてみるつもりです。

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