垂渓庵です。
現在わたし達が話す日本語には、とてもたくさんの漢語が含まれている。西洋の進んだ文明を取り入れるために、江戸時代末から明治時代にかけて作られた和製漢語も含めて、その数は膨大なものになる。日常の基本的な語彙は、さすがにもともとの日本語──「やまとことば」あるいは「和語」──が大きな割合を占めているけれど、それでもその全てではない。
「両親」と「ふたおや」、「兄弟」と「あにおとうと」のように、どちらかというと漢語で表す方が自然な概念も多い。また、「愛情」、「家族」のように、対応する「やまとことば」を思い浮かべにくい例も数多くある。漢語を抜きにしては日常生活は成立しないと言っていいだろう。
そんな漢語の中には、仏教用語として日本語に入ってきて、そのまま日常語として用いられるようになったものがいくつもある。「彼岸」や「お盆」、「供養」、「地獄」などはすぐに思いつく。「金輪際」や「有頂天」なども、ある程度仏教に関する知識を持っていれば、仏教用語だと分かるだろう。しかし、次のような場合はどうか。
「護身」、「根気」、「知識」、「内証(ないしょ)」などの場合だ。これらは、仏教の深い教理や根本的な世界観を表すというよりも、その説明のために用いられたことばが、文脈から離れて、ごく一般的なことばとして用いられるようになったものだ。
いま、中公新書の『日常佛教語』(岩本裕 著 昭和47年) によって、そんな仏教に由来することばをいくつか抜き出してみよう。
愛敬、挨拶(あいさつ)、痘痕(あばた)、
安楽、意地、意識、一蓮托生、
一向(いっこう)に、一心、会釈(えしゃく)、
とりあえず、ア行に属するもののみを挙げてみた。仏教に由来するといわれても、ピンとこないものばかりではないか。知っていただろうか。「まだら」は「曼荼羅(まんだら)」に由来していたということを。「無縁」、「無念」、「滅相(めっそう)もない」、「滅法」も仏教由来。なんと、「やぶ医者」の「やぶ」も同じだ。
こうやって見てくると、わたしたちは知らないうちに、仏教の世界観をも内に含む世界で生きていることが分かる。そうそう、「世界観」の「世界」も仏教に由来する。ついでに言うなら、「世間」もだ。
ことばの由来を探れば、他にもいろんな経路をたどって今日のわたし達のところにたどり着いたものがいろいろあることだろう。とても面白いことだと思う。
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