2012年4月13日金曜日

旧暦3/23 再掲 先日脱糞

垂渓庵です。

これは2008年11月に公開した。自分としては面白く思っている記事だ。しかし、Z会の中の人も含めて不快に思う人もいるだろうな。担当さんには好意的なコメントをもらったけれど。そういえば宮下訳の第五巻がなかなか出ないなと思って検索をかけたら、なんと来月発売予定だ。これは忘れずに買わないと。週末は更新を休みます。次は月曜の予定です。


以下本文

かぐわしいタイトルですみません。垂渓庵です。

今日は先日わたしが思わず脱糞してしまった話です。

……。

……。

って、そんなことはありません。今回は新旧翻訳比較の話です。

池内紀さんによるゲーテのファウストやカフカの諸作品の翻訳あたりがきっかけになっているのでしょうか、最近は名作の新訳がちょっとしたブームになっている感じです。わたしも新訳でチェスタトンの「木曜日だった男」や、スティーヴンスンの「新アラビア夜話」などを読みました。どちらも光文社の古典新訳文庫のものです。もっともスティーヴンスンの方は、岩波文庫や今はなき福武文庫で読んでいたので再読です。新しいものは言葉づかいが今風になっていて、それはそれで読みやすいなあという印象です。

が、今回とりあげるのは、「ガルガンチュワ物語」です。みなさんはご存じでしょうか。「ガルガンチュワ物語」は、人文主義華やかなりし時代にフランスで活躍したフランソワ・ラブレーの破天荒な小説です。続編的な「パンタグリュエル物語」とあわせて、分厚い文庫本で五冊分の分量になります。

ガルガンチュワとパンタグリュエルは巨人の親子です。「ガルガンチュワ物語」は父ガルガンチュワの誕生に始まってガルガンチュワが戦争で活躍するまでのお話。「パンタグリュエル物語」は、息子パンタグリュエルが主人公の物語で、後半では託宣を求めて航海に出たりします。

どちらも、巨人たちの奔放で猥雑な物語を人文主義的教養で飾り立てたお話と言えばよいでしょうか。人文主義的教養と奔放で猥雑な物語は、筆者の真情を容易には悟らせないための韜晦だという説もあります。

いずれにしても、野放図で途方もないホラ話としての側面があるのは事実ですから、あまり難しいことは気にせずに、まずはお話を楽しめばよいのではないかと思います。

さて、そのラブレーの「ガルガンチュワ物語」、わたしが高校生のころは渡辺一夫の翻訳で読むのが定番でした。様々な文体のパロディなどにも工夫を凝らした翻訳で、名訳との評価が高いものでした。

わたしもその渡辺一夫訳で読んだのですが、格調高い一方で現在では耳遠いことばなども使われており、もはや気軽に読んでみるということがしにくくなっているのではないでしょうか。

しかし、そこはうまくしたもので、ちくま文庫から宮下志朗さんの新訳が刊行され出しています。これがまたなかなかに読みやすい翻訳に仕上がっています。その両方を、とある短詩の翻訳を通して比較してみようというのが今回の趣旨です。

まずはその原詩を、と言いたいところですが、わたしはフランス語はまったく分かりません。というわけで、いきなり翻訳を挙げることにします。ガルガンチュワ物語の冒頭近くに出てくる短詩です。幼年時代のガルガンチュワが作った詩ということになっています。

渡辺一夫訳ではこんな風になっています。

短詩
先日脱糞痛感
未払臀部借財
同香而非同香
濛気芬々充満
何人許諾欣然
希携行我佳人
善哉善哉
欣然塞小用孔
野人常不習礼
佳人敢弄繊指
得探我峡間孔
善哉善哉

何やら難しそうですが、実は難しくありません。とても教育的ではない内容です。が、おそらくは元の詩が当時としても古風なフランス語で書かれているか何かで、こんな翻訳──渡辺一夫は訳者注で戯訳と説明しています──になったのでしょう。しかし、これでは残念ながら今の読者には少ししんどいことになってくるかと思います。

そこで登場するのがちくま文庫で現在三冊目まで出ている宮下さんの翻訳です。そちらでは、この部分、次のようになっています。

ロンドー
先日、われ脱糞しつつ
わが尻に残りし借財を感ず
その香り、わが思いしものにあらずして
われ、その臭さに撃沈さる

嗚呼、だれか、
われが脱糞しつつ、待つ貴女を、
連れてきてくれぬものか。
さすれば、われ、女の小用の穴を、
がばっとふさぎて、
女は、脱糞しつつ、
その指にて、わが糞穴をふさがんものを。

う~ん、こんなのこのブログで紹介していいのでしょうか。ちょっとためらわなくもありません…。しかし、これが人文主義華やかなりし頃の、世界史でも必ず登場する有名な作者の有名な作品の中身なのです。……。これが全てだと思われても困るのですが…。

ええい、ままよ。ついでに馥郁たる訳文をもう少し紹介しちゃいます。この短詩の少し前で、ガルガンチュアは雪隠(トイレ)の次のようなことばを紹介しています。まずは渡辺訳、次が宮下訳です。

雲谷斎よ、
びり之助よ、
ぶう兵衛よ、
糞まみ郎よ、
そなたのうんこが
ぼたぼたと
わしらの上に
まかれるわい
臭太郎よ、
糞次郎よ、
たれ三郎よ、
聖アントワヌ熱で焼かれてしまえ!
もし仮に
みんなの穴が
閉まっていれば、
尻は拭かずに退却じゃて!(渡辺訳)

うんち之助に、
びちぐそくん、
ぶう太郎に、
糞野まみれちゃん、
きみたちのきたないうんこが、
ぼたぼたと、
ぼくらの上に、
落ちてくる。
ばっちくて、
うんちだらけの、
おもらし野郎、
あんたの穴がなにもかも
ぱかんとお口を開けたのに、
ふかずに退散するなんて、
聖アントニウス熱で焼けちまえ!(宮下訳)

えっと、何をどうコメントすればいいのでしょうか。もうこれで終わりにしたいぐらいですが、とりあえず気づいたことを指摘しておきましょう。

最初の短詩にしても、後の雪隠の詩にしても、細部には多少異動があります。それが翻訳者による解釈の違いによるものなのか、それとも両者の依拠テキスト自体の違いによるものなのかは判然としません。が、それは置いておいて、やはり宮下訳の方が決定的に読みやすくなっているということは指摘できるかと思います。最初の短詩だけじゃなく、二つ目の雪隠の詩にしてみても、渡辺訳の方はどうも格調は高いのですが、やはり古くさい感じになっています。宮下訳はその点、渡辺訳を大いに参考にしているようですが、言葉づかいが今風になっています。ことに雪隠の詩は、おそらくガルガンチュワの年齢を意識してやや幼い感じに訳すという工夫をしておられて、できるだけ登場人物をヴィヴィッドに感じてもらいたいというような姿勢が垣間見られます。

もちろん、渡辺訳にそのような配慮がないというわけではありません。これはこれで、翻訳が発表された当初はそれなりに「読める」ものだったのだろうと思います。しかし、第二次世界大戦中から訳業が進められ、最初の訳が出版されたのが戦後すぐ。それ以後も改訳が重ねられていたとはいえ、やはり、ことばの古びには抗いがたいものがあるみたいです。渡辺一夫が亡くなってからでもすでに三十年以上が経過していますしね。

そう言えば、かつてイギリス文学の名訳者として有名だった中野好夫の翻訳にしても、今読むと特に会話部分で違和感を感じてしまう場合もあります。翻訳には寿命があるということでしょうか。

しかし、そこはそれ、名手の翻訳です。無下に退けてしまうのももったいない話です。宮下訳でラブレーに親しみつつ、時に渡辺訳を開いてその実験的な翻訳の手腕にうなってみる、という楽しみ方もあるのではないかなと思います。

今回の記事はZ会ブログ始まって以来の伏せ字記事になるのではないか、と実は内心少し期待しながら更新の申請を出しています(笑)

タブーに挑戦する耽読翫市でした。

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