2012年4月3日火曜日

旧暦3/13 再掲 プロスロギオン

垂渓庵です。

これも2008年8月に公開した。こういうものを読むのは実はあまり嫌いではない。もっとも、日常的に手に取るわけではないけれど。「ユニークな倫理の先生」についての記事は今回は省略したが、ほんとにユニークな人だった。哲学に興味を持つようになったのは、確実にあの人の影響だ。

以下本文

垂渓庵です。

今日は旧暦の七夕です。が、今回はそれに相応しい風流な話題では全然ありません。どちらかというと、暑さを亢進させるような話です。耽読翫市はあなたを忍耐力の限界にいざないます。


わたしはキリスト教系の高校に通っていました。そのせいかどうかわかりませんが、キリスト教というものに以前から興味を持っています。とは言え、キリスト教の歴史については、高校で宗教の時間に習ったことをうろ覚えしているに過ぎません。いや、それもあまり真面目には聞いていませんでしたから、ほとんど覚えていないと言った方がいいでしょうか。

そんなわたしですが、読書の範囲が広がり、岩波文庫などにも触れるようになってくると、キリスト教関係の書物などが目に入ってきます。たとえば聖テレジアの『完徳の道』だとか、アウグスティヌスの『神の国』だとか。そうそう、以前紹介したユニークな倫理の先生は、フォイエルバッハの「キリスト教の本質」は読まなくていいとおっしゃっていたのでした。そう言われると読みたくなるものです。で、読んでみたのですが…。え~と、読まなくていいと思います。

そんなこんなで、キリストに倣うわけでもないのにキリスト教関連の本をたまに買ったりするわたしが、たまたま復刊されたのを手にとったのが、聖アンセルムスの『プロスロギオン』でした。

この稿を書くために何年ぶりかで「プロスロギオン」を読み返しました。それで気づいたのですが、この本は「プロス ロギオン」と発音すべきもののようです。わたしは二十年以上「プロスロ ギオン」と読んでいたのですが(--)

ことほどさようにキリスト教やスコラ哲学の素養に欠けるわたしですが、素人なりにアンセルムスの議論を面白いなと思い、不慣れな抽象的思弁についていこうと悪戦苦闘したのが二十年近く前でしょうか。その後、その記憶をすっかり忘れてしまったわたしは、またもやアンセルムスの抽象的思弁に悪戦苦闘することになってしまいました。

さて、その「プロスロギオン」。全体は大きく二部に分かれます。神の存在証明を行う第一部と、神の本質を考察した第二部です。

今回ご紹介するのはそのうちの第一部。アンセルムスはそこで神の存在を論理的に証明しようと試みます。彼の議論の骨格は  たぶん  次のようなものになります。

神は「それよりも大きいものを考えることができないもの」と言い表すことができる。
↓(ところで)
われわれは、「それよりも大きいものを考えることができないもの」という言説が何を意味するかを知性によって理解することができる。
↓(したがって)
人間の知性の中には「それよりも大きいものを考えることができないもの」が存在すると言うことができる。
↓(ところで)
人間の知性の中にあるものよりも、現実にあるものの方がより大きい存在であると考えられる。
↓(したがって)
知性の中に「それよりも大きいものを考えることができないもの」が存在するのならば、現実世界にもそれは存在しなければならない。
↓(なぜなら)
知性の中の存在よりも現実世界の存在の方が大きいのだから、知性の中にある「それよりも大きいものを考えることができないもの」よりも大きいものが存在することになってしまうからである。

もしもそのように言えるのならば、「それよりも大きいものを考えることができないもの」ということばの意味から考えて、それは矛盾である。

これでアンセルムス的には神の存在が証明されたことになります。このくそ暑い時期になんてめんどくさい議論を読ませるのだとお思いになったことでしょう。しかし、この際、それは置いておいて、彼の論証そのものに注目してみましょう。この論証を読むといくつか疑問が浮かんできませんか?

○神は「それよりも大きいものを考えることができないもの」なのか。

○「それよりも大きいものを考えることができないもの」ということばが理解できるからといって、そのことばで表される存在が人間の知性の中に存在していると言っていいのか。

○人間の知性の中には「丸い四角」のように現実世界には存在しないものも含まれているが、「それよりも大きいものを考えることができないもの」が、そのような現実世界に存在しないものと異なり、確かに現実世界に存在すると言いうる根拠はどこにあるのか。

○人間の知性の中にある存在と知性の外にある存在との大小をくらべることができるのか。

アンセルムスは「スコラ哲学の父」と呼ばれるほどの優れた哲学者だったみたいですが、この論証に関しては、発表当時から批判があったようです。その中でも ガウニロという人物の「愚かなるものに代りて」という批判が岩波文庫の「プロスロギオン」に併載されていて、実際に読むことができます。これもなかなかにめんどくさい議論が展開されてはいますが、現代の我々の目から見ても比較的穏当で常識的な立場からなされているもののように思えます。

ガウニロの批判は文庫本でほんの十数ページ程度のものです。ここではその詳細を紹介することはしませんが、上に書いたような疑問もガウニロによってすでに提出されていました。二十うん年前、わたしはアンセルムスの論証よりも彼の疑義に深く深く納得してしまいました。このガウニロの批判に対するアンセルムスの自説再説 も、岩波文庫版の「プロスロギオン」に収められていますが、やはり分の悪さを感じてしまいます。

どだい、神のような超越的な存在の実在を論証しようとするアンセルムスの企て自体に無理があるわけですが、それはそれとして、ガウニロも、アンセルムスの議論自体には批判的ですが、神の存在を疑っているわけではありません。神の存在を当然の前提とした上での議論なのです。そういう意味では、彼らの心性は現在の我々の心性とはかなり異なっていると言えます。それをはっきりと感じさせてくれる点で、わたしは彼らの著作を興味深いものだと思います。

考えてみれば、聖アンセルムスとガウニロが残した書き物は、わたしたちを神の存在を大真面目に議論していた11世紀の中世人の世界に連れて行ってくれるタイムマシンのようなものです。夏のうだるような暑さの中、ますます暑苦しくなるような議論は御免だと思われるかもしれませんが、長期休暇の時でもなければ、こんな議論に取り組む心の余裕もないはずです。タイムマシンを操縦してみようと思う人は一度挑戦してみて下さい。

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