垂渓庵です。
車に乗っては歩行者に文句を言い、道を歩いては車を呪詛する。それはある意味人間として自然なことだという気もする。人間というものはあいにく首尾一貫するようにはできていない、とも言えるだろう。
その人の気質や状態と置かれた状況、条件などの無限の組み合わせの中で、その場その場では自然に思えることが、それらの条件などを一切捨象して、言動の方向性だけを取り出すと矛盾して見えるということになるだろうか。外面的には首尾一貫していないようだけれど、その人の内面世界では矛盾してなどいないと言い直してもいいかもしれない。
よく言われることだが、ごく身近なことわざの中には、相反することを指向するセットのなんと多いことか。「大は小を兼ねる」と「うどの大木」、「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き」、「急がば回れ」と「善は急げ」などなど、いくらでも挙げられる。
人間は、置かれた状況などによって、正反対の対応をとりうるわけで、こういうことばも、両方向で用意されている必要があるというわけだ。
もちろん、そんな風に前と後で言動が変わっていい場合ばかりではない。私的なサークルなどはともかく、多少とも公的な性格を持った組織などは、当然一貫性が要求される。会社や行政などを考えてみればいいだろう。方針ややってることや言ってることがくるくる変わっては困る。組織内外の人間に多大の迷惑をかけるというものだ。
学校などもそうだろう。カラーというか方針というかがくるくると変わる学校に、自分の子供を行かせたいと思う親はあまりいないんじゃないかな。これまではキリスト教系だったけれど、今日からは仏教系になります、みたいな。いや、そんなことはあまり気にしない人が多いかもしれない。厳しい校風だったのが急に自由になった、などという場合を想定すればいいのか。
当然、何らかの組織に所属する人間も、その組織に関する限り、一貫した言動が求められる。求められるのだけれど、現実には場当たり的な対応をする人が少なくなかったりしなくもなくない。あるいは、「嘘も方便」的な対応をとってみたり。ほんとは、公的な面については、「嘘つきは泥棒の始まり」を基本的な真理としないといけないと思うのだけれど。
枝野さんはどれだけほんとのことを言ったのかな、などと思ってみたり。
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